時代は下って江戸中期。芭蕉を崇敬し、蕉風の復興に努め、天明俳諧を確立した蕪村はどうであったか。まず、この稿の1週と2週の前半でやや詳述した『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』の共著者ツベタナ・クリステワが、その「芭蕉のあと」の章で、ここに感覚合流の優雅な美を発見できる、として取り上げた次の一句を挙げる。併せて、氏による優れた鑑賞文を掲げよう。
涼しさや鐘を離るる鐘の声
よく知られていると思いますが、これが蕪村の最も有名な俳句の一つです。俳画の絵師としても優れていた蕪村は、言葉でも絵を描いています。肌で感じる「涼しさ」と耳に聞こえる「鐘の声」は、「鐘を離るる」という、聴覚的描写でありながら視覚映像でもある表現によって、みごとに関連づけられるので、読者には見えないはずの「鐘の声」も見えてきますし、「涼しさ」も伝わってきます。
氏にしたがえば、「聴覚的描写でありながら視覚映像でもある表現」なので、「鐘を離るる」は明らかに隠喩であり、この句を名句たらしめている要石なのだ。 作者の内感を真の「動詞の活用」によって掌握する芭蕉流の共感覚俳句であって、見えないものを見せる高雅にして巧妙な形象力に驚かされる。 蕪村の共感覚俳句の代表的な一句である。
次に掲げるのは、尾形仂校註による『蕪村俳句集』(岩波文庫、2015年)から抽いた共感覚俳句22句であり、蕉門十哲句のリストと同様に、右側に諸感覚の組合せと比喩の種類を付した。
古井戸や蚊にとぶ魚の音暗し 聴覚・視覚 (隠喩)
落合ふて音なくなれる清水哉 視覚・聴覚 (喩なし)
涼しさや鐘を離るる鐘の声 視覚・聴覚 (隠喩)
廿日路の背中にたつや雲の峰 触覚・視覚 (張喩)
秋立や素湯香しき施薬院 嗅覚・視覚 (隠喩)
稻妻にこぼるる音や竹の露 視覚・聴覚 (隠喩)
笛の音に波もよりくる須磨の秋 聴覚・視覚 (隠喩)
こがらしや岩に裂行水の聲 視覚・聴覚 (隠喩)
牙寒き梁の月の鼠かな 触覚・視覚 (張喩)
易水にねぶか流るゝ寒さかな 視覚・触覚 (隠喩)
皿を踏鼠の音のさむさ哉 聴覚・触覚 (隠喩)
斧入て香におどろくや冬こだち 聴覚・触覚 (喩なし)
山守のひやめし寒きさくらかな 視覚・触覚 (喩なし)
むめのかの立のぼりてや月の暈 嗅覚・視覚 (隠喩)
我捨しふくべが啼か閑居鳥 視覚・聴覚 (隠喩)
看病の耳に更ゆくおどりかな 聴覚・視覚 (隠喩)
篠掛や露に声あるかけはづし 視覚・聴覚 (隠喩)
わたし呼ぶ女の声や小夜ちどり 聴覚・視覚 (隠喩)
落葉して遠く成けり臼の音 視覚・聴覚 (隠喩)
眞がねはむ鼠の牙の音寒し 聴覚・触覚 (隠喩)
我骨のふとんにさはる霜夜かな 視覚・触覚 (隠喩)
「芭蕉千句」といわれ「蕪村二千句」といわれる中で、 目下のところ蕪村句の数の精査は行っていないが、共感覚俳句の割合では芭蕉を下回っている感じがあるなど、概ねの傾向は掴めると思っている。 リストによれば、諸感覚の組合せでは視覚と聴覚句が最も多く、次いで視覚と触覚句の順となり、その他(視覚と嗅覚など)句が最も少ない点などは、芭蕉句、十哲句と似通っている。 芭蕉句とは同様だが十哲句とは大いに異なっているのは、喩なし句が極めて少なく、ほとんどが比喩(主として隠喩)を核心に形象化されていること。 むしろ隠喩の割合は芭蕉を超えるほどだ。 芭蕉尊崇の蕪村の面目躍如といったところか。
では一茶はどうであろう。 蕪村生誕後約50年遅れて生まれたが、15歳から俳句を詠みはじめ、蕪村晩年の約20年間は同じ時代を生きた。 生涯逆境にあったといわれ、そこからにじみ出た独特の主観的・個性的な句をつくったとされる。 そんな一茶には共感覚俳句が結構多い。 「一茶二万句」といわれるほどだから、その全句に当たれば相当な数になる可能性がある。
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