いつまでも狐の檻に襟を立て
小泉洋一
みなさん、今日は金曜日、それも13日の金曜日ですよ。
なんだか不吉とされているこの日、典拠は様々のようだ。幼いころの私にとってはと言えば、私の大の苦手とするスプラッター映画が、学校での話題となる日という意味において、不吉ではなく明確に不幸な一日であった。その海の向こうの国の選挙が終わった。のか、終わってないのか。そんな一週間だった。
そもそも、映画の刺激に弱く、宇宙、水、銃がだめ。宇宙ははなから見ないし、水は「タイタニック」が限界、銃は「ボディガード」が限界点だ。その点、俳句はいい。いくらでも不吉にしたり、暢気にしたり、自分の都合と想像力次第だ。
掲句、季題は「狐」。もちろん狐は年間を通して生息しているけれど、冬場に食物が不足して里に出ることや、防寒のための狩猟が冬場であったため冬とされたようだ。
今でも、場所によっては人の住むエリアに出没し、エキノコックス症という狐やその排出物に寄生する寄生虫が人に入ることがあるそう、エキノコックス検査を実施するエリアもある。そんなところにも、狐の不吉さはある。
しかし、ここで詠まれている狐は檻の狐、捕えられたか、動物園(も広い意味では、いつかの代で捕えられたわけだけれど)の景。人は檻の外にいる。襟を立てた横顔の表情は読み取れない。ただ、「いつまでも」というほどの、狐を眺めるには不自然な永い時間を、顔を鎧うように狐の檻に立つ人物が描かれるのみ。
それにしても、なぜこの人は狐の檻の前に佇むのか。
ひとつに狐と全く無関係の理由によるものとも言える。狐の檻の前にはいるけれど、対面しているわけではなく、背中を向けて、例えば人を待っているということがある。可能性は濃厚だ。
一方に、狐と関係した理由ともいえる。わざわざ多くの景色の中から、選ばれている時点で、何か関わりがありげであることはある。ここは「檻に」の「に」の働きによって解釈が変わるけれど、それが「目標、行き先」を表しているとすれば、襟は、つまり視線は狐の檻に向かっていることになる。普段、あまり目を止めることもなかった狐が、突如、その人物の注意を引いた。狐の存在が立ち上がったことによって、目を奪われているようでもある。
さらに想像を進めれば、狐の襟巻というものなどもあって、襟を立てて見入っている人物と狐が呼応しているような、あるいは同化しているようなそんな錯覚を覚えることも可能だ。うーん、実にスリリング。
動物園に飼われている季題の動物は、季題となりうるかという問いは古今あるけれど、この野性との引っ張り合いを見るに、やはりこの句の狐は、力を得て存在感を増した冬の狐という気がするのである。
俳句によってこれだけのスリルを感じる私には、一生観る機会は訪れないと思うけれど、映画「13日の金曜日」で、主人公・ジェイソン氏が人を殺す理由も諸説あって、映画の中では明確にされていないそうだ。そういう意味では、「13日の金曜日」は、何かと理由をつけたい今週のアメリカ的というよりも、理由はさておき現象が横たわる俳句的スプラッター映画ともいえるかもしれない。
『夏座敷』所収 (1991年、小泉洋一・著)
(阪西敦子)
【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。