シゴハイ【仕事×俳句】

シゴハイ【第2回】青柳飛(会議通訳)


【俳人ロングインタビュー】
【第2回】
青柳飛(会議通訳・俳人)


セクト・ポクリットの新企画「シゴハイ【仕事×俳句】」は、世にもめずらしい表稼業をもたれている俳人に、俳句の話を差し置いて、本職のお仕事について伺ってみちゃうコーナーです。【第2回】は、サンフランシスコ在住の会議通訳・青柳(ふぇい)さん。飛さんはどうしてアメリカに渡ったのか? 「イタコ系通訳」、飛さんの仕事に迫ります。

米国移住から「通訳」になるまで

──飛さんがアメリカで「会議通訳」のお仕事をされているのは、いつごろからなんですか?

 1989年、グリーンカードをとった年からですね。それまではニューヨークに住んでいて、会計事務所で働いてたんですけど、それはグリーンカードをとるためだけに働いてました。2年間くらいかな。

──そんなにすぐとれるものなんですか?

 うん、そのときはすぐとれました。当時はスチューデント・ビザが切れていて、退国命令がもう来てたんだけど(笑)、弁護士にきいたら、アメリカ人と結婚するか、仕事を探してスポンサーになってもらうか、どっちかだって言われて。

1986年、レーガン大統領だったと思うけど、grandfather clause(祖父条項)っていうのを出したんで、すでに長く居住していて雇用主がスポンサーになってくれたら永住権がとれたのね。

──それで予定通りいったと

 そうそう。グリーンカードとれた日に「明日、辞める」って言って。給料も安かったし(苦笑)。

──そこから「通訳」にどうつながるんでしょう?

 コンサルタント業務とかやってる会社だったから、セミナーとかを横でやってるわけですね。そこに通訳の人が来てるんだけど、毎日働いてないみたいだし、給料もよさそうだから、あれいい仕事だなって。「あたし、通訳になります!」って言って会社辞めたの(笑)

──でも「なります」って言ってなれる仕事でもないですよね?

 通訳の学校とかも通ったこともなかったので、当然仕事はゼロでした。でもコンサルのときにクライアントだった電通の人が、「フェイ・コミュニケーションズ」っていう名前を作ってくれて。「通訳」ってことばはどこにも入っていないから、失敗したら仕事を変えればいいって。

──なるほど〜。かっこいい名前ですね。

 会社っぽい名前にしておいたほうが、社会的信用も得やすいからって。もちろん仕事は最初、ゼロだったんだけど、海洋堂っていう大阪の会社があって……知ってるかな?

──えっと、フィギュアとか作ってる会社ですよね?

 そうそう! そこの社長さん(会社では「館長」って呼ばれてたんだけど)が恐竜好きだったから、日本で恐竜展をやりたいって話になったのね。アメリカで流行った『グレムリン』(1984年)っていう映画の特撮をやったクリス・ウェイラスが、彼の友達だったので、クリスを日本に呼んで恐竜を作ってもらうことになったんです。その通訳が最初の大きな仕事でした。

マスコミ向けの恐竜展オープニング・スピーチを通訳中の飛さん。右側がクリス・ウェイラス

サンフランスコに移住してアメリカ俳句に出会う

──それはいつごろの話ですか?

 1991年から93年くらいまでかな。クリスたちは、サンフランシスコから少し北にあるサン・ラファエルっていう街に会社があったから、ニューヨーク・カリフォルニア・大阪を結んで、年に何回も。移動はビジネスクラスで、ありがたい生活させてもらった。

──イベントの専属通訳だったわけですね。

 そうだね。で、いきなりぶっちゃけて話すと、そのとき仕事で出会った男とお付き合いをはじめて(笑)、日本も近いし、ニューヨークみたいに雪降らないからカリフォルニアに移住するって手はあるんじゃないの、って言われて。

──おお、序盤からまさかの急展開!

 わたし、いつも「6か月は試してみる」を実践しているのね。だから「6か月」試すつもりでサンフランシスコに移ってきたの。そしたら、男との関係はあっさり切れて……(笑)

──遠距離あるあるですね

 でもサンフランシスコの街って、アジア人も多いし、日本も近いし、移住することに決めたんです。それが95年のことかな。ただ最初の1年はブラブラしていて、カフェで「ポエット(詩人)です」って言ってみたりして……当時はまだ俳句はやってなかったんだけど。

──そ、そうなんですか?

 うん。そのときにカフェで英語で俳句を作ってる人に出会ったの。これなら短いし、自分でもできるかなって思って、4行で書いた詩を「短歌」だって言って、朗読したりしてたんですよ。

──3行でも5行でもなく、4行で?

 そうそう。そのときは3行で俳句が書かれてることも、短歌が5行で書かれてることも知らなくって(苦笑) そしたらたまたまシカゴで「秋」の石原八束先生を呼んで俳句大会をするするんでスピーチを和訳できる人を探してた当時HSA(米国俳句協会)副会長だったリー・ガーガに出会って、HSAにリクルートされて俳句をはじめることにはなったんだけど。

──HSA(The Haiku Society of America)は1968年に設立された非営利の俳句団体ですが、そこが日本からのゲストを受け付けていたときにリクルートされたわけですね。

 日本側からスピーチは全て和訳して原稿を送ってくれ、と言われたリーがあわてて無料で翻訳してくれる人間を探してたの(苦笑) 「HSAに是非入ってくれ」と、結婚を申し込む時みたいに膝ついてお願いされたんだけど、彼は6フィート3インチ(190センチくらい)の長身なんで、膝をついてるLeeと普通に立ってる私の頭の位置がほとんど変わってない、と爆笑されたなあ。それが1996年の夏あたりのこと。

──それまでは日本から俳人を招聘するということは、あまりなかったんでしょうか?

 1978年には、森澄雄や山本健吉がニューヨークに来てHSAの会議でスピーチしてますね。この時にHSAがいただいた超豪華俳人による色紙は今でもサクラメントのHaiku Archiveに保管されていて、そのレプリカが2年ほど前に一般展示されたことがあります。

「恐竜」から「IT」への転身

──すいません、それで「通訳」の話はどうなったんでしたっけ?(笑)

 当時はインターネットもないから、旅行代理店が出張者の仲介をしていたんだけど、ちょうどシリコンバレーでITがはじまった頃だったの。Yahoo!とか、Paypalとか、オラクルとか。そういう会社が通訳を探していたところに、先輩通訳の方に気に入ってもらって、あれよあれよとIT専門の通訳になっちゃったというわけ。

──それまでは技術系の知識はゼロだったんですよね?

 ないない。

──「恐竜」から「IT」に。すごい変わり身ですね(笑)

 でもね、周りもみんな「サーバーって何?」って感じでしょ。だからとりあえず難しい専門用語は、カタカナでそのまま繰り返しとけばいいってことに気付いて(笑)。それも強みだったわけですよ。

──それでも問題はなかったんですね?

 でも、きっちり通訳の勉強した先輩にわたしたちの通訳を聞かれたことがあって、「あなたがた、ぜんぶカタカナでおっしゃってるの?」って驚かれたことはある(笑)。でも、少しずつ言葉を教えてもらいながら通訳ができるっていうのは、ラッキーなスタートだったかな。

オフィスでの逐次通訳の後「建設中の病院の施設を案内しますから皆さん、どうぞ」になり、ヘルメットと安全チョッキを着て屋上で写真撮影

「とりあえず6か月」でNYへ

──ちなみに、大学は文学系だったんですか?

 上智の外国語学科だったので英語はできなかったわけではないけど、進んだのはポルトガル語でした。英語とスペイン語とフランス語は、倍率が高かったので(笑)アルバイトも国際法の事務所で弁護士の秘書みたいなことをやっていて、そのまま正社員になったので、英語はまあそれなりに使ってましたね。

──大学生のアルバイトにしてはかなり専門的な仕事ですよね?

 そのときの大ボスが濱田邦夫先生っていう、のちに最高裁判事になった方だったんだけど、いわく「大学の成績でAが一つもない秘書を雇ったのは初めて」だったらしい。

──アメリカに行く話はどこからはじまったんですか?

 ああ〜(笑) わたしね、当時は結婚してたんですよ。すごく結婚が早くて、まあ順調だったんだけど、なんか急に外国に住みたくなって。

──それって漠然と、ですか?

 うん、なんとなく。夫は国際機関でアジア関係の人と働いていたので、行くとしたらタイだったから、ふたりでタイ語まで勉強したんだけど、まだ若いからって駐在は却下になっちゃってね。

──「海外」に行く気満々だったわけですね。

 そうそう、だからどうしてもどこかに行きたくなっちゃって。そしたら法律事務所のボスが任期が終わってニューヨークに帰ることになったの。弁護士資格をアメリカでとるっていう名目で行ってみるのもいいんじゃないって勧めてくれて。夫と実家には「6か月だけ」って言って、日本を飛び出しちゃったんです。

──人生の転機には「とりあえず6か月」

 だって1か月じゃわからないけど、1年は長いじゃない? そしたらニューヨークの生活がすごく合ってて。英語ができないわけじゃないから、生活にも苦労しないでしょ、だから6か月が6年になり、6年が12年になり…(笑)

──それでサンフランスコに移ってからは、ずっと技術系の通訳をされているわけですね。

 96年からはそうですね。まあ途中で、「モチベーショナル・スピーカー」っていう煽りながら啓蒙するスピーチってのがいろんな会社で流行ったことがあったから、その通訳をしたりもしてましたけど。

──なんですか、そのあやしい仕事は

 ほら、日本でもビジネス書とかであるでしょ。「ステップアップのための10個のテクニック」みたいな。アメリカ人ってそういうの好きなんだよね、きっと。まあ、そういうのはあったけど、9割以上の仕事はIT系です。

IT関係の通訳をするきっかけとなったSun Microsystemsのブリーフィングセンター前で。現在、このキャンパスはフェイスブックの本社(?)に

──今でこそコロナ禍で出張が難しいですけど、「会議」に出向いて通訳することが多いわけですね。

 もちろん、こっちの本社に日本からの出張者が来たときの通訳とかもあるんだけど、年に何回か、お客さんを招いたイベントをやるわけ。それはラスベガスで開催されることが多いかな。コンベンションセンターと一体になったホテルにレストランもカジノも全部入ってるから。

──年間スケジュールでいうといつ頃が繁忙期なんですか?

 5・6月か、9・10月に重なることが多いから、ひどいときには1か月のあいだに「ベネチアン」っていう同じホテルに4回行ったこともあって、受付の人に「あれ、またあなた?」って言われたり(笑)

──基本的にお仕事は「西海岸」なんですね。

 ただ、マイクロソフト社だけは「西」と「東」で毎年交代でやるの。だから、出張でニューヨーク、ワシントン、トロントとかに行くんだけど、おかげでアメリカ国内の移動だけでもマイルがよく貯まる(笑)こないだついに「ライフタイム・ワンミリオンマイラー」になりました。

──おお、おめでとうございます。

 でもね、シリコンバレーの偉い人たちって世界を飛び回ってるから、「テンミリオンマイラー」とかがごろごろいるわけ。ラスベガスの帰りなんて、マイレージの列のほうが、一般の列よりも圧倒的に長くて、わたしみたいなシンプルなゴールドとかだと、普通の列に並んだほうが早いんじゃないかって思うくらい(苦笑)

──ちなみに、下世話な話ですみませんけど、ITバブルの頃って通訳のギャラも上がりました?

 うーん、そうでもないかな。というか、通訳のギャラってもともとそんなに安くはないんですよ。時給じゃなくて半日とか一日なので。日本と比べると高いらしいけど、こっちは車で長距離移動したりするので、仕事を一日に掛け持ちできる東京のほうがトータルでは稼げるらしいです。ただ、会社が大きくなれば、仕事の量はがばんと増えるかな。PayPalなんて、最初行ったときは5人くらいのオフィスだったし。もちろん、逆に潰れていった会社も多いけど。

1997年の「第2回日米俳句大会」にてスピーチ通訳中の飛さん。

憑依系通訳、スティーヴィー・ワンダーに念力を送る

──通訳のお仕事でいちばん大変なことって何ですかね?

 うーん、話題にキャッチアップできるようにニュースや新聞を日々チェックしなきゃならないことだと思うけど、私はあんまりやってない(笑) IT系の通訳って流行の技術みたいのがあって、やってるうちに詳しくなれるから。だから、こっちは言葉を繰り返してるだけなんだけど、まわりはわたしがSE(サーヴィス・エンジニア)の経験者か、コンピュータ・サイエンスの学位をもってると思ってるらしい。

──すごい技能ですね。

 長年やってると、乗り移ったように「わかっちゃう」ことがあるんですよ。「わかったつもりになれる」のかもしれないけど。自分では「憑依通訳ですから」って言ってます。

──「イタコ系」通訳ですね。

 目の前で、スピーカーの人が難しいことを言ってるでしょ。それなのに乗り移ったように言葉が出てきたり、場合によっては、スピーカーより先に説明をしちゃったりしているらしい(笑)

──若いころ、中井久夫さんという精神科医の方の本を読んだときに、インドネシアの学会に招待されて言葉を聞いているうちに、一晩で自分の発表をインドネシア語にして発表した、という逸話があったのを思い出しました。そういう「言語取得における日常意識を超えた体験」って、ふつうは思春期までらしいです(笑)

 あとはね、これは真面目な通訳さんはやらないらしいんだけど、食事とかに同席させてもらったときは、面白い話もするし、エンターテイナーになる(笑)そのかわり美味しいご飯やワインもご馳走になるけどね。「東京生まれの吉本」と言われてるらしい。

──そんな飛さんが、今までで遭遇した「最大のピンチ」は何ですか?

 とある会議に、ビル・クリントンが大統領辞めたあとにゲストで来ることになってたんだけど、飛行機のせいで到着が遅れることになったことがあったの。そのあとの余興でスティーヴィー・ワンダーが歌うことになってたんだけど、お客さんは退屈してるから、主催者がスティーヴィーに一曲頼んだら、トークをしはじめちゃって(笑)

──その通訳も飛さんが?

 うん。英語だけならまだしも、面白いジョークとかさ、あと独特の喋り方とか、全然うまく訳せなくて。あのときは焦って、ブースから「スティーヴィー、はやくピアノを弾け!」って念力を送った(笑)

──すごいピンチ。でも、そういう経験があると、あとはもうなんでもござれですね。

 うん、何が来てもだいじょうぶ(笑) ITの業界ってインド系の人が多いんだけど、インド人の英語は聞き取りにくいでしょ。こないだウェブを使って大きい会議があったとき、主催者からスピーチの動画が先に送られてきたんだけど、すごく難しくて。通訳パートナーがwordにディクテーションの機能があるから、それを使えば文字起こしができるんじゃないって言われてやってみたけど、全然ダメだった。でもそれだって慣れてきました。

──やっぱり発音が違うから難しいんですかね。

 発音というかイントネーションが違うんだろうね。あとは早口だと思う。きっと頭の回転が速い人たちが集まってるんじゃない?

──インドは数学大国。IT系の先端に集まる人材ともなれば…

 でも最近いちばん聞き取りづらかったのは、フランス人の英語ですよ(笑)

──フランス人は開き直ってフランス語織り混ぜながら英語喋る人もいますからねえ。

 3回目でようやく慣れてきたかなあ。

──さすが憑依系通訳

日本語俳句にたどりつくまで

──話は戻りますけど、もともとは「詩」に関心があったんですか?

 最初にロースクール入ろうと思ってニューヨーク来たんだけど、その前のプレ・ローで内容がつまらなくて投げ出しちゃって(笑) 小説読むの好きだから、コロンビアで有名だった「クリエイティブ・ライティング」のコースをとろうとしたの。

──最初は「小説」だったんですね。

 だけどアメリカで教育を受けてないから「クリエイティブ・ライティング」のコースの前にESL(English as a Second Language)のクラスをまず取れって言われた。ESLでのライティングで最初に出た課題が「Who I am」というタイトルだったの。

移民が多いから、みんなボート・ピープルだったとか、戦争で祖国を追われたとか書くんだけど、わたしは「I am a bat.(わたしはコウモリである)」っていう一文から書き始めたのね。日本でもうまくいかないし、アメリカにもまだ馴染んでないし、みたいな。そしたら先生に呼び出されて「きみは、何を考えてる?」って言われちゃって。

──それって褒めことばじゃなく?

 いや、授業で何を聞いてるんだっていう(笑) ほかのクラスにも顔を出したけど、やっぱりなかなかうまく書けなくて、時間もかかるし、それで「詩」だったら少し短いから何とかなるかなと思って、「4行の短歌」にたどりついたわけ。

──そこから「もう1行」減らして、どうやって俳句に?

 たまたま、日本語から英語に翻訳された俳句のアンソロジーの朗読会にいったら、すごく面白くて。日本語の俳句にはあんまり興味がなかったんだけど。

──それまではどういうものを読んできたんですか?

 推理小説とかが多かったかも。ただ日本の小説とかも英語で読むようになって、いちど「マキオカ・シスターズ」(『細雪』)を読んでるところを見た通訳仲間が、激しいショックを受けたらしい(笑) あとは村上春樹かな。最初にスパゲッティを茹でる場面の話、『ねじまき鳥クロニクル』だっけ、それが最初に「ニューヨーカー」に出たのを読んで、衝撃を受けたんだよね。

『細雪』は英語圏では「マキオカ・シスターズ」と呼ばれる

──日本語以外の小説も読まれますか?

 最近だと、中国系アメリカ人、あるいは英訳された中国の小説が面白くて。文化大革命のころに大人になった人の話は面白いですね。

──英語どっぷりの生活のなかで、どうやって日本語の俳句に?

 97年に「第2回日米俳句大会」が開催されたとき、まだ俳句はじめたばかりだったけど、バイリンガルがあまりいなかったので、通訳も兼ねて参加したんです。そのときに石原八束先生も挨拶したんだけど、「アメリカなら朗人くんがいいよ」と「天為」を勧めてくれたのね。「秋」に入ったのは、佐怒賀正美さんが主宰になられてからです。

1997年の「第2回日米俳句大会」にて。右は鷹羽狩行さん。

──「秋」主宰の佐怒賀正美さんとは、どうやって知り合われたんですか?

 銀座のとあるお店で「天為」の若手が句会をやってたところに、天野小石さん(現・編集長)とか、福永法弘くん(現:同人会長)とかがいて、そこに佐怒賀さんもたまに参加されていて。法弘くんとかには「こいつは本当に日本語できるのか?」とか言われてたんだけど、「ぼくは悪くないと思います」って佐怒賀さんはフォローしてくれたんです。

──それで佐怒賀さんが2006年に「秋」の主宰を継がれたときに入会されたということなんですね。

 そう。「秋」で新人賞とったときは、もう50代半ばだったから、法弘くんには「どこが新人だ!」って言われたんだけども(苦笑)

米国俳句協会会長として全国へ

──2016年から2019年まで4年間、米国俳句協会会長としてアメリカ各地を飛び回りました。主だった活動を教えてもらえますか?

 HSA(米国俳句協会)会長の主な仕事は、年に3回各地で開催されるミーティングに出来るだけ参加すること、毎月のニュースレターに会長挨拶を書くこと、毎月の役員会議の司会役をするというのが主な仕事。会議は、私の時は「電話」でしたが、今はZoomを使ってるみたいです。

──すでに市民権取得後だったとは思いますが、日本出身の俳人としては、「初」の会長だったわけですよね。

 ううん。1979年から81年にニューヨーク市在住のヒロアキ・サトウ氏が会長をやってる。

──佐藤紘彰さんは、芭蕉から高橋睦郎まで、英訳をされている方なんですね。

 私の前任者三人と私の後任となった Jayは皆大学教授だったの。だから例えばニュースレターのご挨拶も、格調高い英語の文章を書くわけですよ。私の場合はそうはいかないので、野球で言うところのDHならぬDW(Designated Writer)を毎回登場させました。

──指名打者ならぬ「指名ライター」ですか?

 例えばトカゲとかね。春には、天に昇る龍が登場した。たまたまサンディエゴの先の海辺の町でミーティングをやった時のInnに住んでいた猫とかが書き手になったり。

──「I am a cat.(吾輩は猫である)」みたいですね(笑)

 猫の名前があの会の幹事だったシェリーと同じ名前のシェリーで、何故か毎晩私のベッドに同衾しにきて、オーナーを驚かせてたっけ。まあ言ってみれば、ちょっと今までの会長と違うよと言う感じでやろうとしたのかな。

天為新人賞受賞時の飛さん。左は、昨年末急逝された有馬朗人「天為」主宰。右は同時受賞の天野小石さん(現・編集長)。

──英語で俳句を書くときの魅力というか、「楽しさ」について教えていただけますか?

 私が英語で書く俳句の9割には季語が入ってるんですけど、アメリカにはいわゆるバイブルのようにこれは絶対って思ってるような歳時記はない。だから私が使っている季語がわからないっていう場合もある。逆に「蟻穴を出る」が季語であることを知らない読者が、「すごい発想!」って驚いてくれたりのメリット(?)もあったり。

──リズムの面ではどうですか?

 英語のシラブルを575で数えると不自然になるので、それには捕われないで、自由に書けるというのも魅力のひとつかも。あとは私のメンターだったビルヒギンソンが言ってたんですけど、英語は私の母語ではないでしょ。だからこそアメリカ人が考えないような言葉の使い方をするのも面白いらしい。

──過去の俳人から影響を受けたりもしましたか?

 私が最初に俳句を始めたころは芭蕉の影響というより、子規の影響というか、 わりと写生句みたいなのが多かったんです。でも私はキャンプには行かないし、鳥や花の名前も知らない。日本語の俳句で「私」という主語が出て来ないので英語の翻訳でも「I」が使われなかったことが多かった過去の影響でもあるんでしょうが、私の俳句は逆に「I」がいっぱい出てくるようになりました。

──やはり英語特有の発想みたいなものが、俳句にも大きく影響するということでしょうか。

私は文法がダメだから、今でも雑誌に送った後で定冠詞を直されてた上で採用!みたいなことも多いけど、英語には俳句で使ってみたい面白い言葉がたくさんあるように思います。ただ、ひとつだけ。もし、この記事を読んでいる方が英語俳句に挑戦しようと思ったら、絶対に最初に日本語で書いて翻訳しないことです。上手く言えないけど、日本語で書く時と英語で書く時とでは使う頭(?)が違う気がするので。

──逆に「読むとき」はどうなんでしょう? 英語の俳句、特に英語ネイティブの人の書いた俳句を読むことが圧倒的に多いと思うんですが。

 これは非常に難しい質問かも。日本語に訳しちゃうと伝わりにくい言葉の使い方があるからね。日常的な何気ない景を飾らない言葉で詠める。これが私にはなかなか出来ない英語ネイティブとしている俳人の強みかもしれません。

quarantine haircut
a snowfall of mom’s hair
on the hardwood floor
Susan Antolin (Note 1)

ロックダウンの散髪雪のごと床に降る母の髪

これは、コロナの影響で介護施設からお母さんを自宅に引き取ったスーザンの俳句です。

──テーマとして提示されている一行目の「quarantine haircut(ロックダウン・ヘアカット)」は、それ自体が凝縮された面白い表現ですね。切ってあげた白髪が雪のようだ、という見立ての先に「hardwood floor(硬めの木材の床)」という質感まで描写してるところが、日本語の17音よりも少し細かい感じがします。

 あとは、広大なアメリカを詠んだ句に触れた時も面白い。

horse pasture
the prairie wind moves
with muscle
Chad Lee Robinson (Note 2)

放牧地草原の風筋肉を持ち

訳が上手く出来なかったけど、サウス・ダコタ州に住んでいるチャッドの句には馬を題材にしたものもかなり多い。

──「風が筋肉をもってる」という発想は、日本語だとなかなかできないですね。逆に、飛さん見て日本語の自由なところ、不自由なところってあります? 外国語をある程度使いこなせるようになると、日本語はもはや純粋な「母語」ではなくなると思うんですけど。

 日本語のいいところは季語が575の5とか7にぴったり収まるっていうところですかね。ただ、サンフランシスコはあまり四季がはっきりしてなくて(って言うとカリフォルニア人に怒られますけど)、雪も降らないし 、夏もそんな暑くないせいかセミも鳴かない。その辺の季節感のなさ(?)が、日本語で俳句をつくるときは、ちょっときついかな。

──サンフランシスコって7〜8月でも20度ちょっとなんですね。それで冬も15度とか。季語でいうと「小春」や「冬ぬくし」から「薄暑」「涼し」くらいのあいだを揺れてる感じですね。そのへんは海外詠のむずかしさかもしれません。

 でもね、私は「海外詠」という言葉がものすごく嫌いなの。私にとっての海外詠は私がアメリカ以外で作った句になる訳だけど、私が日常としているアメリカの生活を日本の読者がどのくらい解ってくれるかな、というのはある。

──たしかに「海外詠」というのは、まだ日本の外で生活する日本人はもちろん、旅行に行く人も圧倒的に少なかった時代の言葉かもしれないです。京都だろうが、ニューヨークだろうが、アブダビだろうが、その地の風土固有の俳句があるわけで。そういう意味では、日本人読者にとって俳句は「異文化への扉」ともなりうるのかな、と思います。

 幸い、私は有馬朗人先生というアメリカ暮らしも長い英語もできる国際人を俳句の師に持ったので、その点は楽だったかもしれないけど。佐怒賀さんの「秋」では勝手放題な句を投句してますが、OMG(Oy My God)だのメール用語のxoxo (kiss and hugs)とかを使ってもちゃんと反応してくれる!(笑)

──今日は、たっぷりとお話をうかがえて楽しかったです。最後の質問ですけど、いま「Who I am」について書くとしたら何ていう書き出しにします?

 Good Question! そうですねえ。でもやっぱり「I am a bat.」かな。このまま死ぬまでアメリカで暮らすだろうけど、スパゲッティを焼きそばソースで炒めるし、一月になれば箱根駅伝の結果が気になるし、でも喧嘩は英語でしか出来ないし、結局一生どっちつかずだと思うから(笑)。純粋な日本人とも言えなくなってるけど、完璧なアメリカ人とも言えないBat暮らしも悪かないかな、なんてね!

【次回は脇本浩子さん、3月20日ごろ配信予定です】


Note 1:  from ‘The Haiku Hecameron:  Gratitude – in the Time of COVID-19,’ edited by Scott Masonm Girasole Press, Chappaqua, New York, 2020

Note 2: from ‘The Heron’s Nest,’ Volume XXII, Number 4: December 2020, edited by John Stevenson et al, www.theheronsnest.com, accessed on 1/7/21


【プロフィール】
青柳 飛(Fay Aoyagi)
東京生まれ。1980年代よりアメリカに住み、2002年に米国市民権を取得。サンフランシスコ在住。「天為」「秋」同人。Associated Editor of ‘The Heron’s Nest,’ President of Haiku Society of America(米国俳句協会会長)(2016-2019)。英語句集  ’Chrysanthemum Love,’ ‘In Borrowed Shoes,’ ‘Beyond the Reach of My Chopsticks’.

【自選10句】 

night ocean
death’s puppeteer
clears his throat

夜の海死の人形師咳払い

inside of me
a silkworm
spits out the night

吾の中の蚕が夜を吐き出しぬ

monologue
of the deep sea fish

misty star

深海魚のモノローグ星おぼろ

rumble of the metro
a queue of city crabs
inches forward

メトロのダダダ町の蟹達少し前進

playing
rochambeau
the winter moon wins

じゃんけんぽん冬の月が勝つ

おぼろ月今日はこのまま象でゐる

OMG(オーマイゴッド)グッピーが飛んで来た

四号車九番の席かまいたち

三鬼の忌静寂から夜産む女

心太プシュッあの頃がプシュッ


【「シゴハイ」のバックナンバー】
>>【第1回】平山雄一(音楽評論家・俳人)


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