神保町に銀漢亭があったころ【第40回】青木亮人

Where were you while we were getting high?
――銀漢亭に立ち寄った3月のことなど

青木亮人(愛媛大学准教授)

銀漢亭に最初にうかがったのは2015年3月だったと思う。訪れたのは晩の8時頃で、夜風が余寒の名残のように肌寒い頃だった。

2015年初頭に拙著『その眼、俳人につき』が俳人協会評論新人賞の栄に浴したため、協会の授賞式等に参加した後、二次会に銀漢亭のドアを叩くという流れだった。

銀漢亭には「雲の峰」の朝妻力さんが誘って下さった。

朝妻さんと伊藤伊那男さん――以下、「伊那男さん」と記させていただく――は「春耕」同門で、旧知の間柄である。ゆえに朝妻さんは私の受賞祝いとして銀漢亭に誘って下さったのだ。

朝妻さんとは関西で学生をしていた頃にお目にかかり、しがない大学院生だった私を何かと気にかけて下さり、俳人協会の受賞もことのほか喜んで下さった。

そうした経緯があったため、協会懇親会の際に朝妻さんが「松山にいる青木君は東京の俳人に会う機会は少ないだろうから、ぜひ銀漢亭に行こう」と誘って下さり、懇親会後にタクシーを拾って銀漢亭に向かったのである。

タクシーに乗っている間、助手席の朝妻さんは昭和歌謡をこぶしをきかせて歌っていたのを覚えている。私は後部座席で大きな花束や西嶋あさ子さんからいただいた久保田万太郎の短冊を抱えながら、昭和歌謡をめぐる朝妻さんと運転手のやりとりを聞いていた。

 ★

銀漢亭に着くとすでに大勢の俳人が詰めかけており、入口近くのカウンターや奥の席も一杯だった。私は奥の席に通され、そこで初めて櫂未知子さんにお目にかかった。

櫂さんは私と同じ北海道出身、また同じ高校出身(小樽潮陵高校)ということもあり、先輩にあたる方だ。私は櫂さんの隣をすすめられたのでそこに座り、色々お話した。

櫂さんは時折煙草を吸いながら北海道や俳句のことなどお話した。その口調に北海道弁のアクセントが端々に感じられ、ひそかに懐かしかったことを覚えている。

櫂さんの指からゆらめくように立ち上がる煙を見ながら、自分もかつて煙草を吸っていたことを思い出し、その煙の向こうに伊那男さんが忙しそうに料理を作っているのが見えた。

周囲を見ると俳人たちがグラス片手にそれぞれ語り合い、笑ったり、大声で話したり、箸で皿の料理をつまんだりしている。店内が一種のサロンのようで、東京の俳句文化の厚みを実感した想いだった。

サロンというのは明確に活字に残るようなものではなく、空気のように醸成された気分に近い。

それは様々な俳人が時に集い、時に話をしたりしなかったりしながら日を経て醸される場所の雰囲気や記憶の集積といったもので、立ち寄った人々の記憶に残る時間の流れといえようか。話の内容や出来事とともに店内の声、味、匂いや手触り、座り心地といったものが渾然一体となり、気付けば俳人としての胸中の一角を占める、ささやかな断片の記憶。

銀漢亭にはそういうサロンめいた雰囲気が何気なく漂っているように感じられ、かつての俳句史で語られた「溜まり場」の現在版を目の当たりにした思いだった。

こういうサロンの「気分」は一度失われると霧消し、活字に残るのはほぼ片鱗のみとなる。

そういう「気分」の貴重さは、たいてい失われた後に思い当たることが多い。気付けば店はなくなり、その「気分」は立ち寄った人々の脳裏に冬の柔らかい暮光のように薄く漂うのみだ。

銀漢亭に長居したい気持ちもあったが、新宿の「ぼるが」にも二次会を誘われていたため――懇親会の折に小澤實さんが誘って下さった――、銀漢亭を途中で辞することになった。

私は「ぼるが」に寄ったことがなく、土地勘もないため辿り着けるかどうか心許なかったが、たまたま店内で呑んでいた橋本直さんが案内して下さることになり、また朝妻さんがタクシーを呼んで下さった。朝妻さんは「銀漢亭に呼んだのは僕だから、見送るのも僕の役目だ」とタクシー代も出そうとされた。驚いてお断りしようとすると、「出世払いだからいいんだよ」と笑いながら仰った。

銀漢亭を出る直前、カウンターにいた阪西敦子さん西村麒麟さんと少し話したのを覚えている。両者ともにお会いしたのはおそらくこの時が初めてで、麒麟さんの背丈が写真で想像していたより高かったことに驚いた。麒麟さんは拙著を読んで下さっていて、特に旧派俳句の短冊の魅力について綴った箇所が印象的とのことで――以前に第一句集を送って下さった際のお手紙にも同様のことがしたためられていた――、彼の句調と通う特徴を感じ、なるほどと改めて得心したものだった。

ただ、私は少し急いでいたこともあり、麒麟さんとひとしきり話した後、隣にいた阪西さんに「句のファンなんです!」と唐突にお伝えしたことを覚えている。阪西さんは突然の告白にも動じず、ニコニコ笑っていた。

言った後で恥ずかしくなった私はお二人と伊那男さん朝妻さんその他の方々にあたふたと挨拶し、店内のさざめきを後に銀漢亭を出て、新宿方面にタクシーで向かったのだった。

タクシーに乗って橋本さんと話しながら、私は伊那男さんに初めてお目にかかった時のことを思い出していた。伊那男さんとは銀漢亭にうかがう数ヶ月前にお会いしており、朝妻さんの結社「雲の峰」総会に私が招かれた際(2014年11月)、伊那男さんもいらっしゃっていたので、お話などうかがう機会があったためだ。

「雲の峰」総会後の懇親会、二次会で伊那男さんや結社の皆さんと飲みながらあれこれお話している時、だいぶ酒がまわった頃にふと伊那男さんの話題になった。

「雲の峰」の方が「最近の伊那男さんは随分丸くなったのよ! 昔は凄かったんだから」と仰ると、周囲がドッと笑った。伊那男さんはニヤッと笑い、少し照れている風だった。

タクシーは気付けば新宿西口付近にさしかかっており、車を降りた私たちは「ぼるが」へ向かった。二階に上がると小澤實さんや「澤」の方々、また今井聖さんや「街」の俳人等が揃っていて、田島健一さんや思潮社の藤井一乃さんもかけつけて下さり、皆さんと改めて乾杯した。「ぼるが」は一階で串焼き等の料理を調理するため、二階には煙その他の匂いが漂っており、私たちはその匂いの中でビールや焼酎ハイボールを傾けながら俳句や文学について語り合った。

その後、すでに夜も更けていたので――24時近くだった――、ほどなく解散となった。

「ぼるが」には「街」のメンバーとして北大路翼さんもいて、近くにある彼の根城「砂の城」――歌舞伎町の雑居ビルにある小さな店で、北大路さんが店主――に行こう、ということになった。一緒に行ったのは田島健一さん、橋本直さん、思潮社の藤井一乃さんと私の四人で、すでに日付が変わるかどうかの時間帯だったように思う。

北大路さんを先頭に皆で歌舞伎町の入り組んだ路地をぞろぞろ歩いていると、雨が急に降り始めた。私は傘を持っていたが、傘を持たない北大路さんはゴミ置き場に捨てられた発泡スチロールの箱を拾いあげ、フタだけ取り外して傘変わりにして歩き始めた。まるでヤクザ映画のワンシーンを観ているようだった。

やがて「砂の城」に到着した我々は髪や服についた雨粒を払い、カウンターで再び飲み直した。

その夜は北大路さんの忠実な舎弟というふれこみの子が出勤していた。20歳ぐらいで、短い髪をピンク(いや、ブルーだったか)に染めており、たぶん女性だった。なかなか面白い子で、北大路さんとともに名言(迷言)をカウンター越しに連発し、私は何度も笑ってしまった。

その子が言ったことで今も覚えているのは、「好きなことだけしたい。好きなことをたくさんして、25歳で死ぬんだ」という将来設計(?)についての話だ。

かつてパンク・バンドのベーシストも似たような台詞を言っていたことを思い出しながら、「もし死ねなかったら?」と聞いてみた。

その子はそんな野暮なこと聞かないでよ、という風に少し眉をひそめた後、「大丈夫。それ以外の予定はないから」とニッコリ笑った。いい笑顔だった。

午前3時あたりに「砂の城」を出た後、我々四人――藤井さんに田島さん、橋本さんと私――は椿屋珈琲店に入り、始発の電車を待った。私はコーヒーだけ注文したように覚えているが、田島さんはオムカレーを注文しておいしそうに食し、橋本さんはケーキセットを何事もなく平らげていた。

ようやく夜が白みそめ、始発電車が動き始めた頃に私たちは店を出て、田島さんと橋本さん、藤井さんは駅の方へ去っていった。結局、橋本さんは晩の銀漢亭から翌朝の喫茶店までお付き合い下さったことになり、ありがたいような、申し訳ないような気持ちで三人の後ろ姿を見送った。

一方、私は宿泊先のホテルがさほど遠くなかったので、酔い覚ましにホテルまで歩くことにした。

酔いがまわった状態で外を歩く際、mp3プレイヤーで音量を大きめに曲を聴くのが好きで――危なっかしいので止めるべきなのだが、つい聴いてしまう――、その日はイギリスのロックバンドOasisの”Champagne Supernova”を聴きながら明け方の新宿をぼんやり歩いていた。

一日が始まろうとする直前で、回収前のゴミをあさろうとする鴉の鳴き声がよく響き、車や電車の音が遠くから響いてくるような時刻だ。耳元ではOasisのリアム・ギャラガーが次の歌詞を繰り返し歌っている。

“How many special people change,
How many lives are living strange,
Where were you while we were getting high? ”

最後のフレーズ――「俺たちがハイになっていたあの頃、お前はどこにいたんだ?」――はその日の出来事を象徴していたのかもしれない、と今では思う。

多士済々の俳人とともに協会の懇親会から銀漢亭、「ぼるが」、砂の城、喫茶店を経巡り、夕方から翌日の明け方までを過ごすようなひとときは、今後はあまりないだろう。何より銀漢亭が店仕舞してしまったのだから、そもそもが無理な話だ。

その後も伊那男さんとはご縁があり、二度ほどご一緒することになった。

一度は2019年の俳人協会賞の授賞式の時で、伊那男さんの句集『然々と』が協会賞を受賞し――その年は新人賞を堀切さんの句集『尺蠖の道』が受賞したため、結社「銀漢」はダブル受賞となった――、私が評論の方で受賞したため、授賞式や懇親会をご一緒した。

約4年ぶりにお会いした伊那男さんは以前と雰囲気が変わったようにお見受けしたが、ゆっくりお話をうかがう機会を得られなかったのは残念だ。

その次に伊那男さんにお目にかかったのは、2020年1月下旬に銀漢亭を再訪した折である。西村麒麟さんが角川俳句賞を受賞した際の記念パーティーで、久しぶりに銀漢亭のドアを開けて入った。

ただ、この時も伊那男さんの話をうかがう状況ではなく――あの店内に50人前後が密集し、伊那男さんはひたすら料理を作っていらっしゃった――、挨拶できないまま銀漢亭を出てしまった。

写真はその時の受賞パーティーの一コマで、右から麒麟さん大塚凱さん、田中惣一郎さん、黒岩徳将さんが映っている。

(写真左から黒岩徳将さん、田中惣一郎さん、大塚凱さん、西村麒麟さん)

この写真を撮った頃にはすでに中国の武漢市が封鎖され、各国では肺炎に似ていながら前例のない症状が爆発的に増えていた。日本にも噂は広まりつつあり、やがて罹患者が見る間に膨れ上がった。そして数ヶ月後、銀漢亭は店を閉めた。

銀漢亭の思い出について2015年3月の出来事を銀漢亭の前後も含めてやや詳しく綴ったのは、銀漢亭の「気分」は各人の個人的な記憶の連なりの中にあるのでは、という思いがあったからだ。

銀漢亭を訪れた俳人にはそれぞれの出来事や思い出があり、その日々の連なりとともに銀漢亭の「気分」が醸成されゆく。ゆえに銀漢亭はサロンとしての佇まいがあったかに感じられる。

私にとって銀漢亭のドアからこぼれる灯の風情は3月の夜の肌寒い空気とともにあり、その店内のさざめきは2015年と2019年のある一日の記憶とともにあった。

銀漢亭が店を閉じた今、そういうことを考えていると、Oasisが歌う“Where were you while we were getting high? ”という一節は図らずも往事の日のありようと響きあうかのようだ。

 “――while we were getting high? ”
あの頃、不思議なほどに高揚していた私たちの姿はどこへ行ったのだろう?

ネットの記事としてはいささか長くなった。

このあたりで筆を擱こう。

【執筆者プロフィール】
青木亮人(あおき・まこと)
昭和49年、北海道生れ。近現代俳句研究、愛媛大学准教授。著書に『近代俳句の諸相』『さくっと近代俳句入門』など。


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