『萬緑』の実力派の新人として頭角を現し始め、一見順風満帆に見えた千空であったが、実は内心は少し焦りを感じ始めていた。
千空は昭和24年(1949年・千空28歳)に、こんな手紙を知人へと送っている。
「僕の俳句ですが、これはまた、俳句なのか俳句でないのか、わからなくなって来ました。俳句とはこういうものだという俳句の本質の究明は、今の僕にはだんだん第二義的な努力になって来ています。若し、かりに、ある人間の誠実な考えが俳句に盛りきれないとして、この場合、俳句というものは斯ういうものだというので、その盛りきれないものをすっかり捨てて、俳句を作るというわけにゆくでしょうか。これは明らかに俳句青年的な考え方ではなく、文学青年的な考えだと思います。(中略)俳句を愛していながら、反面、俳句に嫌気がさしている二重性。自分の俳句が、俳句なのか俳句でないのかわからないゆえんです。」
「この事が俳句を進歩させるのか、停滞させるのか、わからないけれども(そして、この問題も、今の僕には第二義の感が深いけれども)確かに言いることは、古い人々も新しい人々も一応ここに立ちかえる必要があるのではないかという事です。つまり、すでに手垢がついてしまっている感じの、『いかに生くべきか』の場に、遅ればせながら立ちどまることの必要さです。(中略)現代の俳人の多くは利巧に現実とのバランスをとっていて破綻がなく、人間が感ぜられても、前を向いている人間が感ぜられないということになっているようです。だから、俳句雑誌の中で俳句を見ている限りでは、うまいなあと思う俳句でも、『現実に生きている。生きたい。どういうふうに。何のために』というわれわれの日常の苦悩の場からは、おそろしく小っぽけなものに見いてしまう。」
「僕はやはり第一義の生き方をしたい。(ここを押しすすめて、俳句では駄目だという確信がついたら潔く俳句から別れよう。というのが僕の個人的な考えです。間違っているかも知れません。しかし誠実に俳句にぶつかっている以上仕方のないことだという感が深いのです)。この考えを僕は故意にカッコでくるんで置きました。つまり、僕は俳句を愛しているから」。
それは、もうすぐ30歳を迎えるにも関わらず、いまだに姉の嫁ぎ先であり、母の生家でもある家で一間を借りつつ、帰農生活を送っている自分自身への不甲斐なさと、一度「青春の挫折」という苦い経験を味わった過去に依る不安。そしてそこから、自立して生きていかなければならないという、青年ゆえの独立心から来るもどかしさと焦りもあったかもしれない。
この手紙と時を同じくして、千空は五所川原で自分の書店を開こうと日々奮闘していた。
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