白息の駿馬かくれもなき曠野
飯田龍太
私は柄にもなくNHKの朝ドラのファンなので、先日から新しく始まった「おちょやん」も楽しみに見ている。主人公は小さな養鶏場の娘だ。そのドラマに、そこで飼われている鶏が小さな白息を吐くシーンがあった。鶏も生きているのだから、寒い日に息が白くなるのは当たり前なのだが、あああの鶏も生きているのだな、というちょっとした感慨を抱いた。冬の鉱石のように張りつめた空気の中、流れる白息は生命の象徴なのだ。そこには人間と鶏の区別などない。
角川書店の「俳句歳時記 第五版」の「息白し」の項には、「人間の息についてのみいい、馬や犬など動物については使わない」とあるが、これには何か根拠があるのだろうか。過去に動物の白息を詠んだ句はたくさんあるし、私の《牛の息ふしゆうふしゆうと白く伸ぶ》という句の立場は…?
白息の駿馬かくれもなき曠野
掲句も馬の白息を詠んでいる。龍太といえば《大寒の一戸もかくれなき故郷》という句が想起されるだろう。この二句は「かくれもなき」「かくれなき」というほぼ共通の語彙が使用されている。
「大寒の」の句では、高いところから見渡せばすべてが見えるような、小さな集村の景が思い浮かぶ。一戸一戸がくっきりと冬枯れに浮き出しているように見えるのだろう。
一方掲句からは、一頭の駿馬が曠野に佇んでいる景を想像した。曠野の真ん中、まるで土地と一体化したような馬。身じろぎもしないのだが、馬がまさに今を生きていることは長く伸びる白息だけでわかる。そこには何からも隠されることのない、剥き出しの生命がある。
角川ソフィア文庫「飯田龍太全句集」より引いた。
(鈴木牛後)
🍀 🍀 🍀 季語「白息」については、「セポクリ歳時記」もご覧ください。
【執筆者プロフィール】
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)
1961年北海道生まれ、北海道在住。「俳句集団【itak】」幹事。「藍生」「雪華」所属。第64回角川俳句賞受賞。句集『根雪と記す』(マルコボ.コム、2012年)、『暖色』(マルコボ.コム、2014年)、『にれかめる』(角川書店、2019年)。