手袋を出て母の手となりにけり
仲寒蟬
〈なりにけり〉は俳句にはお馴染みの文語表現。俳句を書く方でなくとも多くの方は、ご存知だと思うが、ちょっとさらってみたい。
文法的には、(別の状態に)なる、変わるという意味のラ行四段活用の動詞「なる」の連用形「なり」に、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」が付いて、さらに詠嘆の助動詞「けり」が付いた連語で、意味は「なることだよ」「なるのだなあ」。「けり」の過去の意味合いを加えるとすれば、「なったのだなあ」という感じ。感慨のこもった文末表現だ。
それでは、句の進むにしたがって意味を辿っていこう。
手袋を出て母の手になったのだなあ。
冬の寒い日に手袋をしていた母が手袋を外した、という場面であろう。
〈手袋を出て〉の表現が、隠れていた状態から現れたその瞬間の素手を、大きく鮮明に見せてくれるし、「出る」という自動詞が、手があたかも、一つの生き物としてみずから出てきたかのような印象を生むからだろうか、母の素手をさらに、生々しく、目の前に映し出してくれる。母に対する思いが具体的に述べられていなくても、または述べられていないからこそ、冬の寒さが内包する暖かさへの希求により仄かに立ち上る母恋の情が下五の感慨表現と響き合う。
十七字が、母の生身の手のみを目に見せて心に感じさせて見事だ。
文芸に限らず芸術作品は、(作者が意図するかしないかに関わらず)鑑賞者に鑑賞者自身の心の深い部分との対話の機会を用意していて、自分の知らない自分、もしくは自分が忘れている自分との出会い、という旅へと誘う。
どんな対話かは、同じ作品であったとしても鑑賞者によって違うし、また同じ鑑賞者であっても、その同じ作品と向き合う度毎に変わるものなのだけれど。
この作品では、例えば、手袋から出た、どんな手が〈母の手〉なのだろう。
外出から戻って、即座に家族の食事の用意を始める手かもしれない。解けた靴紐を縛りなおしてくれる手かもしれない。それとも頬を伝う涙を拭ってくれる手か。
あなたにとっての〈母の手〉とは、どんな手だろう。
ここから先は、読者一人一人の母との記憶や、読者の想像力の出番。
しばしの間、掲句を口ずさみながらご自分の心の中に降りていって、あなたの〈母の手〉と出会っていただきたい。
手袋を出て母の手となりにけり
読者一人一人が自分にとっての無二の〈母の手〉の所作を想起している、今この瞬間、読者の数だけの〈母の手〉が出現している。
そしてその先には、この世界に、初めての母が出現した時から今までに存在する全ての〈母の手〉の所作を想像する可能性が開けている。
すると〈母の手〉が、その手の総体としての、永遠に命を育みつづける母の愛情の象徴、つまり普遍の母性の象徴、としても立ち現れてくる。
掲句は、個人的な世界から普遍的な世界までを包み込むことを可能にしている、〈母の手〉のように包容力のある句なのである。
明日はクリスマスイブ。この時期を母と過ごしたのはもうだいぶ前になることに気付いた。郷里の母に電話しよう。
「巨石文明」(2014)所載
(月野ぽぽな)
【御礼】
わたくしの夫でピアニスト木川貴幸(Taka Kigawa)のライブストリームにご来場くださった皆さま、誠にありがとうございました。
録音がございますので、クリスマスプレゼントとしてお受け取りいただけたら嬉しいです!どうぞお楽しみください。
プログラム –
ドビュッシー:版画
ショパン:プレリュード 嬰ハ短調 作品45
ショパン:バラード第1番ト短調 作品23
ショパン:ポロネーズ第6番変イ長調 作品53(英雄)
武満徹:雨の樹素描 II
ベートーベン:ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2「幻想曲風ソナタ』(月光)
アンコール-
リゲティ:白の上の白
ドビュッシー:喜びの島
***
それでは皆さま、楽しいクリスマスをお過ごしください。ぽぽな
【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino