僕のほかに腐るものなく西日の部屋 福田若之【季語=西日(夏)】


僕のほかに腐るものなく西日の部屋

福田若之


小学校六年生の二学期、私の一人称は「我」でした。それまでは長らく「うち」だったのですが、少々早めの中二病を発症し、ある日突然自らを「我」と称し始めたのです。今思い返すと黒歴史以外の何者でもありませんが、他人と一味違う自分を演出したがる“サブカル系の中二病”だった当時の私にとっては、「我」という選択は最善でした。知的な一人称にしようと母のパソコンで検索した結果、確か「我」のほかには「小生」、「吾輩」などを候補に挙げていたように記憶しています。「僕」や「俺」も捨て難かったのですが、この二つは中二病罹患者の女子にとってはメジャーな一人称だったので、その程度で独自性は発揮できないと候補から外しました。そして、「小生」と「我」で随分迷い、最終的に「我」に決定。これでいこうと決めた時の気分は、さながら文豪でした。小学校のクラスで初めて「我」を発動したときに「え?」と言われたときの高揚感は忘れられません。当時の「我」を優しく見守ってくれた友人たちには感謝しています。

さて、私がかつて使っていたこの「我」という一人称。書き言葉でも話し言葉でも、漫画のキャラクター以外に「我が〇〇」や「我々」ではなく「我」を単体で使用している人を私は見たことがありません。ところが、俳句においてはどうでしょう。最も使われている一人称は「我」ではないでしょうか。俳句は文語の作品が多いため当然と言えば当然なのですが、現代俳句協会の『現代俳句データベース』で検索をしてみると、現代俳句においても一人称は「私」や「僕」ではなく「我」が主流であることが分かります。(ざくっと数えただけなので重複などもあると思いますが参考までに。)

我/吾…351句
私…145句
僕…60句

だからこそ、俳句で「我」以外の一人称が使われているときには、その必然性を問いたくなるのです。単純に文語の俳句か口語の俳句かの違いもありますが、『現代俳句データベース』には

気がつけば我も土筆になっている
村上清香

のように、口語とともに「我」が使われている例も収録されており、単に形式だけで使い分けがなされているわけではなさそうです。

たとえば掲句。作中主体の一人称には、「僕」が使われています。「僕」という言葉は『古事記』の頃から存在しており、明治以降に広く男性に普及した一人称です。意外と歴史がありますね。明治期には、書生や大学生といった青年知識人が使っていたということもあり、知的な印象を受けますが、現代では三田誠広氏の小説『僕って何(1977)』の主人公のように軟弱な印象の方が強いかもしれません。

この「僕」という一人称から、私は掲句の主体として若い男性を想像しました。「ぼく」や「ボク」であれば少年かと思いますが、漢字の「僕」ですから、大学生か社会人一、二年目程度の青年をイメージします。場所はおそらく賃貸のアパートかマンションの一室。西向きの部屋ですし、家賃の安い一人暮らし向けのワンルームか1Kあたりでしょう。この部屋には、同居人、ペット、植物など、「僕」以外の生物は存在しません。買ったお弁当やお惣菜はその日のうちに食べ切ってしまうので、きっと冷蔵庫の中にも腐るような食べ物は入っていないでしょう。何か新しいことを始めようとしても長続きせず、動画サイトで流れてくるおすすめ動画を漫然と眺めている日々。上五と下五の字余りによるルーズな調べが、「僕」のとりとめのない生活までをも表現しているように思います。そんな生活の中、ふと差し込んできた西日に照らされることによって、「僕」はこの部屋に「僕」しか腐るものがないことに気がついたのです。「僕」以外の生物が死んで腐ることも、食材が腐ることも、この部屋ではあり得ません。ナマモノである体だけではなく、精神が腐るという意味もかけられているとしたら。西日に照らされながら、この「僕」はすでに自分自身が腐り始めていることを嘆いているように感じるのです。

このように、私は「僕」という一人称から、ここまで想像を膨らませてしまいました。それでは、これが「我」になると句から想像される作中主体の人物像はどう変わるのでしょうか。

我のほかに腐るものなく西日の部屋

皆さんは、何歳ぐらいのどんな人を思い浮かべましたか。妻と子に先立たれた中年男性、女性の地位向上を訴える独身の女性活動家、長らく入院している難病の青年。いずれにしろ、この「我」は孤独でありながらも「僕」よりも強い意志をもって生きているように思います。腐りかけている「僕」とは違い、精神的にも肉体的にもまだ腐らないぞと自分に言い聞かせているような気がしませんか。「我」という言葉のもつ品格が、そう思わせるのかもしれません。こうして検討してみると、「我」には「我」の良さがありますが、やはり掲句には「僕」がふさわしいのではないかと思います。

梅雨の自室が老人の死ぬ部屋みたいだ
福田若之

今回ご紹介した句が収録されている句集『自生地』の最初の一句です。自生地とは、野生の生物が自然の状態で生息している場所のこと。孤独死した老人の部屋のように、物が溢れ返っているにもかかわらず「僕」以外は腐らない。この部屋こそが「僕」の自生地だったのですね。私自身も、社会人になりたての頃はコロナ禍ということもあり、日々を漫然と過ごしていました。一日中部屋にいて何もしなかった日は、西日を浴びるともう一日が終わってしまうのかと虚無感に苛まれたものです。今でもそんな無為な一日を過ごしたときには、掲句の「僕」を思い出します。ああ、私だけではないのだ、良かった、と。

もう立秋というのに、夏の季語の句を取り上げてしまいました。まだまだ暑い日が続きますので、皆さまどうぞ、強い西日にはお気をつけて。

 (福田若之 句集『自生地』より)

斎藤よひら


【執筆者プロフィール】
斎藤よひら(さいとう・よひら)
1996年 岡山県にて生まれる。
2018年 大学四年次の俳句の授業をきっかけに作句を始める。
第15回鬼貫青春俳句大賞受賞。
2022年 「まるたけ」に参加。
2023年 第15回石田波郷新人賞角川『俳句』編集長賞受賞。
2024年 「青山俳句工場05」に参加。

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2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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