【読者参加型】コンゲツノハイクを読む【2024年1月分】


【読者参加型】
コンゲツノハイクを読む
【2024年1月分】


ご好評いただいている「コンゲツノハイクを読む」、2024年も続けます! 新年1回目、8名の方にご投稿いただきました。ありがとうございます。(掲載は到着順です)→2024年1月の「コンゲツノハイク」はこちらから


臨月の四足歩行甘藷食む

大藤聖菜

「街」2023年12月号より

「臨月の四足歩行」に驚いた。そんなこともあったかもしれないと自身の臨月のころを思い出した。どうしようもなく大きなお腹を持て余し、立ち上がることすらも億劫で、四つん這いになって家の中を移動する。そうやってなんとか薩摩芋(ふかし芋だろうか)にたどり着き、おそらくは手掴みでもしゃもしゃとそれを食べている。個人差があるだろうがわたしは臨月のころの食欲がすごかった。季語「甘藷」の素朴さが句にいい味付けをしている。リアルで映像喚起力に優れた一句だ。

千野千佳/「蒼海」)


まだ夢に戻れる暗さ露の朝

野村英利

「たかんな」2023年12月号より

夢落ちではなく夢の中身を詠むのでもなく、暗さを詠んでいる。夢に戻れる暗さを。微かで妙なる時空の記憶を震わせて、夢現の感覚質を蘇らせる。未明、ふと目覚めたが朦朧として、その暗さにまた目を閉じる。ぼんやりと今しがた居た夢の中に戻るのだろうと思いながら。次に目覚めたとき、未明の暗がりだけを覚えている。ほんの束の間に行き来した夢現の暗さを覚えている。しかし、夢の中身は思い出せない。ただし、悪夢ではなかったことは分かる。もやもやとした心地よさが漂っているから。下五の露は儚さの象徴だけにつきすぎと思うが、感覚に訴えてくる句、好きな句。

小松敦/「海原」)


鉄塔に夕日の尻尾冬隣

青木由美子

「鷹」2024年1月号より

もう春が過ぎ 夏が過ぎ
秋になり
ああ、もう冬は隣にやってきた
なかなか犯人の尻尾はつかまらんなぁ
おや?鉄塔の下をよく見てみろよ
黒くてなんと長あぁい尻尾が!!
ほれっ!犯人の尻尾に違いない!
じゃ 鉄塔が犯人ですかい?
いぃんや あれは 夕日の尻尾じゃ”!
ええ!!夕日かあ!
たいへんだあ!山の向こうへ逃げていくぞ!
こら!まてー-!まてー-!!夕日!!
あーあ、逃げられたぁ・・・((+_+))
せっかく、尻尾をみつけたのになあ・・・
夕日はもう山のかなたへ見えなくなるし
西の空はあかあかと嘲笑っているようでぇ
とほほ。。。。
すると、間もなく
親分、もう真っ暗でぇ
夕日の尻尾をつかまえるどころか
尻尾は闇の中に
消えてちまいましたよぉ
・・・・・・

 月湖/「里」)


ディズニーランドに本物の蜻蛉かな

小橋和江

「松の花」2023年12月号より

君にはまだ内緒だけどね、ママンは本当はディズニーランドって苦手なんだ。だってあそこの山も川も全部作り物で、花も木も設計管理品。だから、あの人工パラダイスのバリアをすり抜けて魔法の蜻蛉が現れた瞬間、はっと〈素(す)の我に返った〉、そんな詩(うた)にママンは共感するんだ。
ママンはディズニーアニメも嫌いだし、その訳も君と女同士、いつかじっくり話したいと思ってる。
今ね、本物の世界でものすごく酷(ひど)いことが起こってるのに、ファンタジーの王様ディズニーは「OKオーケー」って応援してるんだよ。これを君にどう説明できる? ママンは泣きたいよ。
それでもママンは祈るんだーー「作り物や絵空事まみれの世界にも本物の蜻蛉がきっと〈ゐる〉。それを見逃さないで」ってね。

生倉 鈴


あの鷹や多摩もロケ地の鳥屋勝とやまさり

足立喜美子

「秋」2023年12月号より

鳥屋勝(とやまさり)とは。鷹が鳥屋ごもりをした後で鳥屋出をする時、以前にまさって勢いが強いこと。お正月に浜離宮恩賜公園で行われている「諏訪流 放鷹術」。句友がここに弟子入りしたのが数年前。そして、御岳山の麓で飼育していた鷹など五羽のうち、四羽を失ったのは2022年3月。野生のテンによる襲撃の被害にあった。江戸時代から続く鷹匠の伝統文化の継承のため、新たな鷹を購入等のCF(クラウドファンディング)を行い、新たな鷹二羽の購入、老朽化した鷹部屋の改築をした。この句のあの鷹。こうした背景を基に詠んだ句だろうと思います。私もCFに参加したり、諏訪流の弟子となった句友を応援しています。

野島正則/「青垣」「平」)


流れ星来世はハンの子を生まむ

富永のりこ

「鷹」2024年1月号より

汗は大雑把に言えば遊牧民国家の君主の称号でチンギス・ハーンやフビライ・ハンのそれである。厳密には二つは違うものだが、ここでは同じものとして読む。流れ星に願ったのだろうか。生まれ変わった次の世では汗の子を生もう、ということだが、現世では望まぬ子を生んだということなのだろうか。汗と結ばれるのではなく汗の子を生むことに主眼があること、更に特定の汗ではなく不特定の汗であることが気になる。汗の子を生んでどうしたいのか、どうなると考えているのかもわからない。

来世とは過去も含む。歴史としてそれらを知っている上で、知っているからこその思いだろうが、現実の、生の人間の男性として知っているわけではないし、繰り返すが対象は不特定である。余程のことがあったのだろうが、その決意は如何ほどなのだろう。

田中目八/「奎」)


秋夕焼この踏切の開くまで

河角京子

「たかんな」2023年12月号より

一度に数本の列車が行き交う踏切。この踏切があがる頃には日が落ちて宵がきているだろう。まるでこの遮断機が夜を封切るように。〈とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな/松本たかし〉はいつの間にか暮れていたという過去の時間を内包している句であるが、掲句は今現在を詠みながら、未来の景も見せている句である。つまり読者には今の夕焼けと、数分後の薄闇の両方が見えてくるのだ。秋の日は釣瓶落としであるから季語は動かない。読者は、踏切の音を聞きながら、徐々に夕闇に包まれてゆく。

北清水麻衣子


片蔭に少女ら振りを合はせをり

北杜青

「都市」2023年12月号より

公共の体育館、コンサートホールなどで行われる学生の大会、演奏会はほとんどの学校に控え室は用意されていない。昼休憩は会場の外の階段や花壇などの段のあるところにわらわらと座って食事をとっていたりする。この句の少女たちは休憩も終わり、ダンスパフォーマンス本番までまだ時間があるのだろう。わずかにできた日蔭を使って、振り付けを合わせている。ちょっとした角度の調整をして、綺麗に揃って見えるように。あの時少し合わせておいてよかったね、とみんなで笑い合える結果になるといい。努力を惜しまず最高の舞台を作り上げようとする少女たちが尊く、片蔭の季語が優しくはたらいている。

藤色葉菜/「秋」)




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