かき氷日本を捨てる話して
橋本直
かつて寺山修司は「身捨つるほどの祖国はありや」と言ったけれど、そこで取り合わせられていた情景は「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」という幻影的なものだった。いまやそのようなロマンティシズムが、ある種の日本礼賛論のほうに結びついていることと、この句の「かき氷」の現実感は対照的である。
体温が下がって冷静になりつつ、かき氷という「はかないもの」が国家の危うさと二重映しになっていく。
近年の「この国から出ていけ」という排外主義の増長を思うと、「捨てる話」をしているのは作者の外国籍の友人なのかもしれないけれど、日本国籍を持つ人だってわりと本気で「日本を捨てる話」をする時代になりつつある。
もちろん、かき氷の名店というのは、今でもたくさんあるのだが、しかし一方で「かき氷」には、スイーツという言葉さえまだ存在していなかった、昭和的な郷愁が感じられるのも事実だ。ちなみに作者は1967年生まれ。
作者の少年期を過ごした1970年代から、2020年という半世紀(!)のあいだに、「祖国」はどういう歴史を辿ってきたのか、という問いもまた浮かぶ。
高度経済成長を経て、バブル崩壊、そして失われた20年(以上)。
グローバル化が進み、単一の国家や言語に縛られる時代はとっくに終わっているのだが(いま手元にあるスマホの部品がいったいどの大陸から来たものか、考えてみるといい)、しかし全員がそのような環境にいるわけではない。
現実の反動として、幻想としての「祖国」がインターネット上に立ち上がり、その一部の人々は、現実空間でも「排外主義」を政治行動として表明しようとする。
日本だけの話ではない。アメリカでも、フランスでも、デンマークでも、ギリシャでも起こっていることだ。政治家たちのなかにも、そのような排外的な方法でしか、支持を集められない人々が増えている。
さて、俳句の世界はどうか。俳句は日本固有の文化だから、「外国人」には理解できない、あるいは日本語以外で詠まれるハイクは「俳句」とは別物だ、と考えたりはしていないだろうか。
もちろん、同じではない。同じではないが、それを興味の対象の外へと呆気なく外してしまえば、冒頭の日本礼賛的なロマンティシズムへと陥る危険性を、孕んでいたりはしないだろうか。
一度、かき氷で頭を冷やしながら考えてみる必要がありそうだ。
『符籙』(2020)所収。(堀切克洋)
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