
醸されし店に惹かれて買ふ酢茎
荒川裕紀
冬の午後、道を歩いていると、理由もなく足を止めてしまう店があります。
硝子戸の奥には、静かに熟成の気配をまとう漬物樽が並び、
発酵の匂いが、冷たい空気の中にほのかに漂っている。
その空気に触れた瞬間、胸のどこかがわずかに揺れます。
「酢茎」とは、京都の冬の伝統的な漬物で、カブの一種の「すぐき」を塩だけで漬け込んだものです。
掲句の「醸されし店に惹かれて」という一語に、その感覚がまるごと閉じ込められています。
「酢茎を買ふ」。
それだけの行為の中に、冬の暮らしの穏やかな息づかいが感じられます。
何でもない瞬間が、ふと心に沁みてくる。その静かな感動が、この句の底に流れています。
暮らしの一隅に立ちのぼる匂い、その中にある優しい光。
それは、店の中に宿る人の手仕事の温度であり、時間そのものの匂いなのかもしれません。
日常の手ざわりの中で、詩はそっと生まれているのだと思います。
(菅谷糸)
【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。

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