2026年6月から【木曜日】は2か月交代で〈大学俳句会〉のみなさんにご執筆いただくことになりました。トップバッターは愛媛大学(愛媛県・松山市)の「愛媛大学俳句研究会」。7回目は1回生の間々田弦吉さん、です。

手花火の球に充ちゆく力かな
今泉忠芳
間々田弦吉(愛媛大学俳句研究会)
愛媛大学俳句研究会の部室の棚の最下段から句会の帰りがけに一冊借りて帰った。
その句集「犇」から八句を取り上げたいと思う。
手花火の球に充ちゆく力かな
線香花火の火球を詠んだ句である。ろうそくから移した火がじりじりと大きくなってゆく様子を、「力が充ちる」と言った妙がある。この「力」というのを自身の体感に照らせば、しばらく腕を力ませてふるふるとしてきたのをふっと緩めた感じだろうか。そういった力をめぐる身体感覚は、火薬のスパークのエスカレートと同時に重さを蓄えてゆく火球がついには地面に落ちる景に重なり、それ故に納得感があった。

火は丸く少し重い。そして火でないところとの境界が結構くっきりと見える。ろうそくの火の絵を描いてみた。外炎、内炎、炎心の三層からなり外に行くにつれて温度が上がるらしい。
句に戻って、簡潔に手花火を提示した上五は続く詳細の描写へスムーズに移行する効果を持つ。球は「きゅう」の音で読みたい。ゆったりとした「きゅう」の音に、「充ち」の母音「い」で緊張し、「ゆく」で時間が進む。「ちから」の母音「い」「あ」が着々とこの火球の存在感を強めるように聞こえる。
句は変わって、
紅梅のほころぶ窓の机かな
風通す茂りの小部屋芙美子邸
天井に日の斑のゆれる冬日かな
以上は建物詠の句として取り上げたい。
一句目は紅梅から窓、机へと映像的に視点が移る句である。紅梅と机がただ並べてあっただけでは景として自立できない。よってこの句の景は、この「窓」に支えられている。その上で改めて句を読めば、少しくすぐったいような紅梅の咲く春の景ときちんと整理された机が醸し出す情感に隠れて、窓という構造物がいかに豊かなものかが伺えよう。ここでの窓は外と内をスムーズにつなぐための建築の装置である。結核に臥せた正岡子規が庭と部屋を隔てる障子にはめるガラスをわざわざ海外から取り寄せたという話も、この類である。独自の秩序ある社会を築き自然を遠ざけたかに見える人間の生活を再び自然へ接続するのは、これもまた人間が作り出したものであるのかもしれない。
二句目は東京都新宿区の芙美子邸(現林芙美子記念館)を詠んだ句である。風の通る涼しい小部屋を想像して、ぜひ訪れたい気分になった。この句に描かれた涼しさもまた小部屋が茂みへ開き風を取り込むからこその、人の手による人のための涼しさである。
三句目は天井に揺れる光を詠んだ冬の句である。前の二句から変わって外の景色は直接描写されておらず、天井にある主体の視点は少しばかりの閉塞感をまとっている。しかし日の斑がちらちらと揺れるのを見れば心安らかな冬日であり、光取りの開口とその家に暮らす人間の共鳴を写し取った句であるといえるだろう。住宅は暮らすための機械であるというコルビジェの言葉が、俳句の感性のもとに思い出された。
脱稿や額紫陽花の華やげる
シンプルながら嬉しさのある句である。原稿を書くのに没頭する緊張の時間がようやく終わり、水面へ出て息継ぎをするように外へ出て華やぐ紫陽花に出会う。庭や町を散歩したのかもしれない、はたまた窓から見えたのかもしれない。いずれにしても、梅雨という季節と仕事を進める生活の響き合いがたまらなく嬉しい句である。
水彩の淡広がりの春夕焼
庭鋏持たせて子らに柚子採らす
春の夕焼けを水彩画の絵具の広がりに重ねた一句目、自分が柚子を採るのではなく子らに取らせる冬の景を詠んだ二句目は過去の自分が感じたものを反芻するような姿勢がみてとれる。つまりこの「春夕焼」は水彩画という表現技法と現在作っている俳句の双方から描写されているのであり、人間が自然を写し取る行為自体が重なってくるように思われる。その点から二句目を見ると、子らに柚子を取らせている主体は過去に自分が柚子を木から切り取ったときの感触をかすかに思い出しながらも、あくまで写実的にこの句を詠んでいる。つまり触覚的な記憶として一度過去に内面化された柚子を、この句の描写の中で再び呼び起こしているのである。

私の母が濡らし絵というものをやっている。海綿で濡らした紙に赤青黄の絵具を置いてゆき、紙面上にて色を混ぜる。写真の絵は今年の3月に「春」を意識して母が描いたものである。鈍くどろりとした赤と青の混ざりは、一句目の淡さとは対照的で面白い。
犇めけるヒッグス粒子除夜の鐘
最後は句集の題ともなっている「犇めき(ひしめき)」の句である。取り合わせが目を引く句であり、不可視のヒッグス場と除夜の鐘のやわらかくも重くびりびりと伝わるような音の粒に重なるイメージがある。「犇めく」が初詣の人だかりを想起させる点も読み味を滑らかにしているかもしれない。質量の原理としてのヒッグス場の概念は、粒子と波動の二重性やトンネル効果のように必ずしも身体感覚には符合しない。むしろ無理に符合させれば科学を間違えて理解してしまうかもしれない。しかしながら、手花火の火球もヒッグス粒子に似た捉えづらさを持っていたのではなかったろうか。直接触れられない火の玉を前にして、私たちは、目で見て、においをかいで、音を聞くことでその形を覚えようと努めるのである。
この場合、除夜の鐘は不可視の現代物理と身体感覚や慣習をつなぐ「窓」である。異なる世界をつなぐ媒介、メディアは他にも身の回りに見つけることができる。たとえば川や用水路は、上流の少し前の天気という不可視のものを此処の今にスムーズに接続してくれている。
直接触れられないものを知ることの多い現代生活において、俳句による物事の媒介や内面化の可能性について改めてその力を感じる機会となった。作者の今泉忠芳さんの句はそうした媒介を意識して作られたのではないかもしれない。しかしながら、少なくとも私には、そのようにあらゆる世界をつなぎ直す力を持った営みのように感じられた。素朴ながら巧みな句の多い句集で、非常に面白く、学びも多く読ませていただいた。句集「犇」著者の今泉忠芳さん、こうして文章化する機会をくださったセクト・ポクリット管理人の堀切さんや愛媛大学俳句研究会の先輩方に改めて感謝の意を示したい。
(間々田弦吉)
【サークルプロフィール】
愛媛大学俳句研究会
俳都・松山を拠点に活動中。現在、会員19名。主な活動は週1回の句会に加え、ときどきの連作句会・吟行・読書会など。下部組織に「深夜散歩部」「フリスビー部」「凧揚げ部」などがある。BOOTH(https://booth.pm/ja/items/7629894)にて機関誌『蜜柑』を絶賛発売中なので、よろしくお願いします。
【執筆者プロフィール】
間々田弦吉(ままだ・げんきち)
二○○七年茨城県筑西市に生まれる 一人っ子 二○二六年より句作を始める 作品を作りたくなるような作品を作りたい