海くれて鴨のこゑほのかに白し
芭蕉
共感覚俳句ってなに
読んで一瞬ぎくっとして、いつまでも忘れられない俳句がある。人によって違うだろうが、私の場合、〈共感覚俳句〉がその一つであることはたしかだ。そういう句は自分で作ろうとしてもなかなか作れそうもないというハードルの高さゆえの感銘の深さがあるかもしれない。しかし、さすがにそういう句は芭蕉にはかなりある。人口に膾炙する掲句もその一つで、このカテゴリーの代表句といえるだろう。
〈共感覚(synesthesia)について〉『広辞苑』は、「一つの刺激によって、それに対応する感覚(例えば聴覚)とそれ以外の他種の感覚(例えば視覚)とが同時に生ずる現象。例えばある音を聴いて一定の色が見える場合を色聴という。子供に生じやすいとされる」としるす。掲句はまさにこの例のように「鴨のこゑ」(聴覚)と「ほのかに白く」(視覚)の同時発生を詩に捉えていて、〈共感覚俳句〉というに相応しい。ちなみに〈共感覚俳句〉は私の造語である。
共感覚の一種ともいえる〈色聴(audition colorée)(仏)〉の例としては、「黄色い声」「暗い音」「赤い音」などが知られ、単純な音の刺激で起こることはきわめて稀な現象だが、音楽のような音の刺激では多数の人が体験するともいわれている。また「子供に生じやすいとされる」とあるあたりも、「俳諧は三尺の童子にさせよ」(『三冊子』)の芭蕉に似付かわしくはないか。
この芭蕉句について、「目で聞く、耳で見る」という〈感覚合流〉の美意識、美的効果の特徴を最も明瞭に現していると評論する著作がある。故ドナルド・キーン(当時、コロンビア大学名誉教授、日本文学研究者、文芸評論家)とツベタナ・クリステワ(ソフィア生まれ、国際基督教大学日本文学教授)による福岡ユネスコ・アジア文化講演会(2013年)での講演記録(一部補正)がそれで、二人の共著『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』として2014年に刊行されている(弦書房)。
かなりセンセーショナルなタイトルに惹かれて読んだ同書では、まずキーンにより「日本の短詩型文学の魅力」(世界で最も短い詩型に惹かれた外国人、奇数好きの長い伝統、一番大事なのは「暗示」、「音」に注目しない日本人、二千年も使われ続ける詩型を持つ幸福、など)が語られる。
次いでキーンを師として仰ぐクリステワが「キーン先生による俳句解読の魅力」(キーン先生という「奇跡」、日本文化の美意識、和歌から俳句への展開の特徴、芭蕉の宇宙〈天才の誕生と歴史/二つの「秋の暮」/不易流行/感覚の合流――「目で聞く、耳で見る」〉、芭蕉のあと、「感覚合流」の美意識の流れ、など)について語る。こんな内容だから面白くて、一気に読み切った記憶がある。
「感覚の合流――「目で聞く、耳で見る」」には次のようなくだりがあり、かねがね〈共感覚俳句〉に興味を抱いてきた私を驚かせた。
……「目で聞く、耳で見る」という芭蕉の俳句の働きを最も明瞭に現しているのは、次の句なのではないかと思います。
海くれて鴨の声ほのかに白し
この句にはとても面白い特徴があります。丁寧に読んでみれば、五ー七ー五ではなく、五ー五ー七となっていることが分かります。規準を守ろうとすれば、不可能ではないでしょうが、しかし、「海くれてほのかに白し鴨の声」のように並べ替えたら、インパクトが薄れて、ごく普通の句になります。なぜでしょう。「感覚の合流」というその特徴が失われてしまうからではないでしょうか。
こう前置きしたあとで、感覚合流を「視線と声が一致する瞬間」と、たいへん魅力的な言葉で結論付ける。
まず、「海くれて」(視覚)と「鴨の声」(聴覚)は、異なる感覚に働きかけることで、対比させられます。一方、「ほのかに白し」は、二つの異なる感覚の合流、視線と声が一致する瞬間を表現しています。
もとより共感覚という話はどこにも見当たらないが、ここでは感覚の合流がそれと同義に用いられていることはたしかである。しかもこれが、芭蕉および蕉門の俳諧のきわめて重要な指標となっている「不易流行」と、ほぼ同列の位置付けで論じられていることは前記のとおりで、感慨深い。
このように見てくると、いささか深読みに過ぎるのではないかと思われるこの節の結びの次のような文言も、不思議に説得力を持ちはじめる。“世界文学”としての「俳句の見方」の多様性に拍手である。「俳句の味方」であることもまちがいなさそうだ。
最初の二つの表現が五文字であるのに対して、三つ目が七文字となっていることにも、大きな効果があると思われます。読者には、飛び去っていく鴨を想像させてくれるという効果です。そして、句が響き終わると同時に、鴨の姿も声も消えてしまいます。
というようなわけで、芭蕉を中心にした共感覚俳句のあらましと見方、その考察過程で出合わざるを得ない詩の比喩についての見方などを、このサイトをお借りして5回にわたり描いてみたいというのが筆者の見当である。
(望月清彦)
【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。
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