このように作品として死を形に残しながらも、そのなかで死が忘却されようとするのは、ウォーホルの絵画と福田の俳句に共通した特徴だ。こうした表面的な態度について、ウォーホルは以下のように言及している。
アンディ・ウォーホルのすべてを知りたければ、ぼくの絵とぼくの映画、そしてぼく自身の表面を見ればいい。それがぼくだ。裏側には何もない。[iv]
しかし銀のウィッグと黒のサングラスを着けたり、多くのセルフ・ポートレート作品を作ったりと、キャリアを通して自己をポップ・アートのスターとして演出してきたウォーホルにとっては発言もその演出の一部であったと考えられる。表面的な自己を生みだし、作品として複製すること。そのようにして「いま」「ここ」にしかなかったはずの生の複製までもがはじまる。まるで〈扇風機どこかの鈴木から電話〉のように。鈴木は全国で佐藤に次いで二番目に多い苗字であり、たとえば福田という苗字よりも匿名性が高い。ユーモラスに描写されただけの友人なのか、人生で一度だけ会話するような他人なのか、作中主体と鈴木との関係は明示されないが、鈴木がどちらであったとしても「どこかの鈴木」であることは確かだ。電話は声を介したコミュニケーションであり、電話していると思っている相手が本当にその人物かも確信は持てない。こうして電話の先にいるはずの鈴木という人間の輪郭はぼやけ始める。相手の「どこかの鈴木」からすれば、涼しい扇風機の風を浴びる作中主体も「どこかの○○(作中主体の苗字)」なのである。
このように二十世紀では「いま」「ここ」にしかないはずの人間の生や死が複製されるが、このことは大衆、大量生産・大量消費といった概念ともつながってくる。ここでアウラと大衆について、再度ベンヤミンの論考を引用したい。
アウラの定義は、どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象、ということである。(中略)アウラの消滅は、現今の社会生活において大衆の役割が増大しつつあることと切りはなしえないふたつの事情に基づいている。すなわち一方では、事物を空間的にも人間的にも近くへ引きよせようとする現代の大衆の切実な要望があり、他方また、大衆がすべて既存の物の複製をうけいれることによってその一回かぎりの性格を克服する傾向が存在する。(中略)事物をおおっているヴェールを剥ぎとり、アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴であり、現代の世界では、「平等にたいする感覚」が非常に発達していて、ひとびとは一回かぎりのものからでさえ、複製によって同質のものを引き出そうとする。ii
アメリカの「狂騒の二十年代」において、映画が国民的な娯楽として広まったことをこのように分析する。この論考が特に優れているのは、ベンヤミンの死後である六十年代のポップ・アートの到来を予言している点である。ポップ・アートはリキテンスタインが漫画のコマを、オルデンバーグが食料品や日常品をそれぞれモチーフとしたように、既存の製品の複製が表現されることによって芸術と大衆の日常生活とが近づけられる。ウォーホルの《コカ・コーラ(3)》と、それについてのウォーホルの発言を見ていく。

アメリカという国の偉いところは金持ちでも貧乏人と同じものを消費するっていうとこだ。TV を見ればコカコーラが映るし、大統領がコカコーラを飲む、リズ・テイラーがコカコーラを飲む、そして考えたら君もコカコーラを飲むわけだ。コークはコーク、どれだけ金があっても街角のホームレスが飲んでいるものよりおいしいコークなんて買えない。コークはどれもぜんぶおんなじでコークはせんぶおいしい。そのことをリズ・テイラーも知っているし、大統領も知っているし、ホームレスも知っているし、君も知っている。[v]
ベンヤミンが「平等にたいする感覚」と呼んだものがここに見て取れる。階級や貧富の差がコーラによってなくなったデモクラティックな空間として、アメリカは「偉い」と称揚される。ここで問題とすべきなのは、大統領やハリウッド女優が消費するコーラと大衆が消費するコーラについて「コークはどれもぜんぶおんなじ」と話すウォーホルは、商品として消費されるコーラと自身が制作したアートに描かれたコーラをも同一視しているだろうという事実だ。こうしてウォーホルの大量生産のアートからは、ベンヤミンが重要視した「いま」「ここ」や「距離」が完全になくなり、アウラは喪失させられる。〈時計塔電光表示コカ・コーラ〉において、このことは表現される。正直に告白すると私はこの句をいいと思えないし、一般的な俳句の感覚からしてもそうだろう。原因は上五・中七・下五にそれぞれの名詞がぽんぽんぽんと置かれている、いわゆる三段切れの構造をなしていることである。しかし福田ほどの作家が一句目という連作自体のテンションを決めうる重要な位置に、初歩的な欠陥に気づくことなくこの句を配置してしまったとも考えられない。この句では二十世紀的な名詞が、二十世紀的に並べられていると見ることができる。助詞も用言も使わず、時計塔、電光表示、コカ・コーラという三つの名詞をただ並べる手つきは、ウォーホルがキャンバス上にコカ・コーラの瓶をただ等間隔に複製するシルクスクリーンの構造とよく似ている。そして時計塔は近代市民社会にいきわたった均質な時間を、電光表示はメディアや情報システムを意味する。そしてコカ・コーラが、大量消費社会の象徴であることは、ウォーホルの作品と発言に見てきた通りである。
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