では俳句においてアウラはどのように現われるだろうか。俳句、すなわち文学は、絵画や彫刻のように一つの物質的なオリジナルを持ちえない。文字はそもそも意味を伝達するために複製を前提としているからだ。たとえば福田が週刊俳句にのせ、そのあとに書き写された『自生地』上の掲句からは、ベンヤミンが言うところの真の意味での「芸術作品特有の一回性」は失われている。ここでは文学におけるアウラについて「同一の文字列から成る、作家のユニークな現象」だと再定義したい。それは、たとえば〈さよなら、ウォーホル まるごとのトマトを齧る〉という句がどの媒体にあっても、文字列が保存されている限りそこに同じアウラを認めようとする態度である。文学においては、文字がどれだけ複製されようとも、その選ばれた文字列にユニークさが現れる。十七音の俳句においては、文字列が同一であることの重要性はより顕著である。一つの季語、一つの動詞、一つの助詞に及ぶまで選びぬかれた表現によって一句は芸術となりうる。では、その文字列の一部を複製する本歌取りという技法において、アウラはどのように扱われてきたのだろうか。和歌などの本歌取りでは先行する作品をその作品たらしめる部分、いわばユニークさを複製することによって、元の作品のアウラを「いま」「ここ」に再現前させ、それを作品へまとわせてきた。しかしベンヤミンが「アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴」と指摘するような本歌取りを福田は行う。それは元の句のユニークさを意図的に書き換え、アウラの再現前を打ち消そうとするものであった。
〈夏草や の跡←消しゴムで消した跡〉は〈夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉〉の本歌取りである。芭蕉の句ではかつて平泉で戦った兵たちに思いが馳せられ、風で揺れながら匂い立つ夏草が見えてくるはずだが、福田の句ではもちろんそんなことはない。「兵どもが夢」が消しゴムで消されたことによって死は一般化されるどころか存在しなかったことにされ、「夏草や の跡」の部分さえ紙の上に書かれた文字となり夏草の質感までもが消しさられてしまう。仲間内での引用で恐縮だが柊木快維はこう述べる(https://sectpoclit.com/aidai-1/)。
しかし、この句で 本当に重要なのは前半部の「夏草や の跡」と後半部の「←消しゴムで消した跡」では表記の位相が異なっている事態の方である。前半部は「消しゴム」で消すことのできる——たとえば鉛筆などの文具で〈紙〉の上に書きつけられた文字だが、後半部はそれに対するメタ的な注釈であり、それは〈紙〉の上に書かれた文字ではない。また、これらがひっくるめて「消しゴム」で消すことのできない活字として頁の上に印字されていることまで含め、この句はメタ的な視点を複雑化させている。[vi]
補足的とはなるが、この句にはまだメタ的な視点がある。週刊俳句に発表された連作において、この句には「『消されたデ・クーニング』に対するオマージュ 一句」という前書きがある。これはネオ・ダダの画家ラウシェンバーグが、抽象表現主義のデ・クーニングのドローイングを消しゴムで消した作品である。ネオ・ダダが抽象表現主義を乗り越えようとしたように、福田も芭蕉を乗り越えようとしているのだろうか。ここで注目すべきは、柊木が指摘した複雑な表記の仕掛けと、『消されたデ・クーニング』への言及という二重のメタ的構造によって、読者は言葉遊びのような仕掛けを解読し、芭蕉の名句を誰でも編集できる情報へと引きずり下ろし、消し去る手つきそのものをおもしろがるのである。
〈パンツなくして沖遠く泳ぐのだ〉は〈愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子〉の本歌取りである。誰から「愛されず」にいるかは、恋人、家族、友人など色々な可能性が考えられるが、篠崎央子はこれが湘子の師匠の水原秋櫻子からの愛なのではないかと推測している(https://sectpoclit.com/hisako-56/)。最終的に湘子は自ら創刊した同人誌「鷹」か、秋櫻子の「馬酔木」同人のどちらを選ぶかの選択を迫られ、前者を選ぶ。そのことを篠崎は以下のようにまとめる。
愛し愛されることの難しさを知りつつも想い続けた無限の苦しみは、新しい道を切り開くこととなる。湘子は、泳ぎに泳いだ遥か沖にて自分の歩むべき新しい大地を見つけたのだ。[vii]
このような句の情感を、福田はまたしてもユーモラスに逆転させる。作中主体が沖を泳ぐ理由は「パンツなくして」その恥ずかしさから帰れないからなのだ。広大な沖ではなくしたパンツも見つかるはずはない。そんなことを湘子の句を下敷きにしたうえで、「のだ」とだ・ある調で報告するところに読者はおもしろみを見出す。
このおもしろがるという態度は、ベンヤミンの語るアウラの崩壊とそのままイコールで結ばれる。なぜなら、アウラという「近づくことのできないユニークな現象」が成立するためには、対象を権威として仰ぎみる距離感が不可欠だからだ。福田はおもしろがることでその距離感をなくし、芭蕉や湘子といった名人の名句のアウラを完璧に崩壊させている。
連作のタイトルの示す通り、そして生や死の複製、大量生産と大量消費、芸術作品のアウラの消失などの点において、ウォーホルは二十世紀の象徴なのであった。そんな「いま」「ここ」の存在が失われてしまうようなウォーホルの作品と二十世紀に対して、福田は掲句において「さよなら」と別れを告げようとしている。しかし、これまで見てきたように〈原爆の音を知らず——そこここに秋が近づく〉や〈昭和天皇の顔とかわからないや夕焼け〉において戦争を忘却してみせ、〈時計塔電光表示コカ・コーラ〉で即物的に名詞を並べ、〈夏草や の跡←消しゴムで消した跡〉や〈パンツなくして沖遠く泳ぐのだ〉でアウラを打ち消すような本歌取りをするなど、福田は別れを告げるにあたって、かえってウォーホル的な表現へ漸近してしまっている、もしくはあえて接近している。 それはこの連作の前の文章にもよく表れている。
終わってしまった二十世紀のために、置き去りの僕たちはいつまで手をふりつづければいいのだろう。[viii]
この連作において、福田は手をふりつづけているかのように二十世紀的な主題について書くことで、ウォーホル的な表現にぎりぎりまで近づく。そうして「いま」「ここ」の一回性、つまりアウラを失った世界を見せたあとに、主体がウォーホルと二十世紀に別れを告げる行為として「まるごとのトマトを齧る」を提示する。ここまでウォーホルに近づいてきたからこそ、そこから反転した決別の宣言には強度と必然性がもたらされる。冒頭で触れたように、ウォーホルの代表作の一つに、大量生産・消費社会を象徴する《キャンベルのスープ缶》があり、そのなかにはトマトスープもある。缶詰のスープとは、工場で均質に加工・規格化され、個性や一回性のアウラを完全に失った商品としてのトマトに他ならない。

福田がここで「齧る」のは、もちろん加工された均質なスープ缶ではない。切ることも調理することもない「まるごとのトマト」である。スーパーに並んでいるものではなく、畑でまだ生っているものだと考えたい。
とりわけ大きく赤い一つのトマトが目にとまる。近づいて手にしてみると、その曲線は手のひらによく沿う。これにしようと思ってすこし乱雑にもぎる。表面はざらついており、皮はぶ厚そうに見える。へたを取ろうとするが、いつだって完全に取れることはない。皮をぷつという感触とともに破ると、口のなかへと酸味と甘みが一体となった野菜と果実のちょうど真ん中の味が流れ込んでくる。すぐに果汁とともに緑がかった種が手へと垂れてくる。中心部のぶよぶよとした部分をしばらく噛んで飲み込むと、思っていた通り皮だけが舌にへばりついていた。
まるごとのトマトを齧る、その一口めは、作中主体にとって「いま」「ここ」にしかない一回きりの経験であり、複製されたキャンベルのスープ缶をほかの大衆と同じように消費することとは決定的に異なる。 二十世紀においては、生の過程も死の瞬間さえもが均質なイメージへと画一化されていった。しかし、そこに「さよなら」を告げ、まるごとのトマトを齧るような一回きりの感覚をそのつど掴み直していくことによって、主体は大衆の画一性に包摂されることのない、「いま」「ここ」の生をいまいちど生き直しているのである。
こうして福田は、我々は、ウォーホルに代表される二十世紀という複製の時代に別れを告げ、二十一世紀という「いま」「ここ」の時代に足を踏み入れた、はずだった。しかし人類は複製と生成の新たな技術と対面している。そう、AIである。AIはこれまでの複製技術とも違い、過去の膨大なデータを学習し、擬似的なオリジナルを生成する。これこそがベンヤミンが論じる複製技術の到達点である。このいわば生成技術の時代において、我々はいかに俳句を書くことが出来るだろうか。『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』は、北海道大学の研究者で「AI一茶くん」を開発している川村秀憲と俳人の大塚凱の共著で、人間の俳句と現状のAIの俳句を比較しながら、それを通してタイトルのように俳句という営みに人とAIがどのように関わっていくかを探る本だ。
この本のなかで一つ重要だと思われるのは、「エンコード」「デコード」という情報工学の用語である。符号化を意味するエンコードは作句の、復元を意味するデコードは読みの比喩として使われる。コンピューターと人間のデコードの過程の違いについて、川村は以下のように語る。
コンピューターで扱うデジタル情報は、「必ず元に戻る」ということが、情報を正しく伝えることの担保になります。ところが、俳句という情報は、もともとのテクストはデジタルで劣化したり変化したりしなくても、人間が「読む」という部分で、コンピューターで言うところのデコードとはちょっとちがったことが起こっています。[ix]
俳句は季語や切れ字という作者と読者の共通認識によって、デコードの可能性をある程度は狭めている。それでもデコードは他者が行うものであり、必ずしもエンコードにおいて作者が表したかった意味通りのものになるとは限らない。このことはむしろ俳句にとってはプラスに働いているだろう。コンピューターによる情報の伝達とは異なり、このデコードにおける意味の揺らぎにこそ、文学特有の「いま」「ここ」にしかない一回性が生まれる。作者は読者を想定しながらエンコードを行い、読者は作者を想定しながらデコードを行い、作者と読者の間に完全には重なることのない世界を立ち上げる。意味の多様性が開かれていることで、一句から立ち上げられる世界は豊かなものになりうる。大塚は以下のように語る。
俳人の一部は、私を含め、エンコードの手捌き、デコードの手捌きをたのしむという気概・性癖をもっているように思います。(・・・)ある情報をどのように一句にしていくのか。いわばエンコードの手捌きは、「文体」といいかえることもできるのですが、作者がどんな「文体」で俳句を書いているのか。私自身は、そこに興味があります。デコードの部分では、読んで鑑賞する、あるいは評価するという、その過程での手捌きになってきます。ix
ここまで主にエンコードとデコードの過程について話してきたが、その結果についても俳人はたのしみも見出しているだろう。それは、エンコードとデコードを通して短期的には句会において、長期的には賞や俳壇において俳句の評価が定められ、作者にフィードバックされることだ。俳句における過程と結果は両輪の関係にある。過程があるから結果が生まれ、結果が生まれることによってまた新たな過程のサイクルへと入る。しかしAIの登場によって、俳句における価値やたのしみはすこしずつ過程の方へと比重が傾いていくのではないか。大塚は従来のアウラという概念を成り立たせてきた人間の書いた俳句の意味や価値を次のように解体する。
「AI一茶くん」は既存の句を借りて、その組み合わせを自分の句として提示する。実際の俳句でも、同じようなことをしているのだと思います。型やパターンが星の数ほどあるわけではなく、限られたなかで選択して、俳句をつくっています。もちろん、パターンのなかから何を選び取るかという部分にそれぞれの意図は働くのですが、そのつど型やパターンを創出するわけではありません。
「読み」の部分もそうです。俳句を評する文言は無限にあるように見えて、実際には、限られたパターンのなかに収まります。
こう言われてみると、人間とAIの俳句のエンコードの過程は本質的に同じで、人間の独創性といった表現に対しても疑念が湧いてくる。もし俳句がすべてパターンのなかを回り続けているとするなら、そこにアウラは存在できるのだろうか。川村は「「詠む」のか「書く」のか「生成する」のか」で以下のように語る。
生成過程から離れてつくられた俳句が作品として独り歩きし、どこかのだれかに届けられたとき、その読者にとっては生成過程はわからないわけですよね。少なくともその読者にとってはその俳句が「詠まれた」のか、「生成された」のかほとんどどうでもよいことのような気もします。
もはや誰がその俳句をつくったかはさほど重要ではない。句をデコードするときに句の作者を明かさないことが一般的な作法である俳句の場において、この川村の指摘はまっとうである。他者からデコードされるという過程において、人間はAIと同じ土俵に立たされる。先ほど述べたエンコードの過程とは別に、俳句の質と量という側面を考えてみる。川村と大塚は2022年時点の「AI一茶くん」の俳句の質に関する課題について多くの議論を交わしているが、AIの進歩がまさに指数関数的であることを考えると驚くべき発展を遂げている可能性もある。AIによる作品の応募を受けいれている星新一賞において、2026年の一般部門の受賞4作品のうち3作がAIを使用していたという事実は示唆的である。いずれは俳句においてもこのような現象が起こる可能性は高いだろう。量に関してはより明白で、人間は作句の速さにおいてAIには敵わない。俳句は十七音という定型にしばられており、その可能性は有限であるから、AIがすべてを生成しつくす可能性さえある。そうなった状態に対して、大塚凱は以下のように語る。
人間が何を詠んでも、もう追いつけないといった状態です。とはいえ、そのときにも「俳句性」のようなものは残ると思っています。そのとき、詠み手と読み手、あるいは読み手同士が互いに、「これは俳句だよね」と指差しあえること、つまり、エンコードとデコードというアナログなプロセスを、共有することができたと幸福にも錯覚できる。それが「俳句性」なのではないでしょうか。
そうなったとき、そんな世界観に触れたとき、俳人は、「それでも俳句を詠む/読む意味はあるのだろうか」とみずからに問い直す経路が残される。俳句をたのしむとはどういう営みなのか、自分たちは何をたのしんでいたのかと問い直す。
ここまで書いてきたように、俳句を生みだす過程においても結果においても、人間がAIよりも優位に立つことは難しい。そして人間の書いた俳句にアウラが宿っていくかもわからない。それでも「俳句を詠む/読む意味」が過程のたのしみにあることは確かだ。だからこそエンコードとデコードの過程における時間、すなわちその遅さが重要なのではないか。AIが俳句だけでなく全てを量産していく時代において、人間があえて俳句を選び、自身で俳句を書き、他者の俳句を読むこと。エンコードとデコードを通して、俳句のたのしみを共有すること。その非効率とも呼べる時間のなかにこそ、複製や生成には代替できない「いま」「ここ」の経験がある。それこそが、生成技術時代において、俳人が「まるごとのトマトを齧る」ための方法なのではないか。
(野上翠葉)
参考文献
[i]アンディ・ウォーホル、パット・ハケット(高島平吾訳)『ポッピズム―ウォーホルの60 年代』(文遊社、2011 年)
[ii] ヴァルター・ベンヤミン(高木久雄・高原宏平訳)『複製技術時代の芸術』「複製技術時代における芸術作品」(晶文社、1999年)
[iii]日高優「映像大量消費の時代における脱社会的社会批判――アンディ・ウォーホルのポップアートを巡って」『立教アメリカン・スタディーズ』第34号(2012年)
[iv] アンディ・ウォーホル・インタビュー「僕には何も失うものがない」
[v]アンディ・ウォーホル(落石八月月訳)『ぼくの哲学』(新潮社、1998 年)
[vi]柊木快維「君はセカイの外へ帰省し無色の街 福田若之【季語=帰省(夏)】 | セクト・ポクリット」
[vii]篠崎央子 「愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子【季語=泳ぐ(夏)】 | セクト・ポクリット」
[viii] 福田若之『自生地』(東京四季出版、2017年)
[ix] 川村秀憲、大塚凱『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』(株式会社dZERO、2022)
【サークルプロフィール】
愛媛大学俳句研究会
俳都・松山を拠点に活動中。現在、会員19名。主な活動は週1回の句会に加え、ときどきの連作句会・吟行・読書会など。下部組織に「深夜散歩部」「フリスビー部」「凧揚げ部」などがある。BOOTH(https://booth.pm/ja/items/7629894)にて機関誌『蜜柑』を絶賛発売中なので、よろしくお願いします。
【執筆者プロフィール】
野上翠葉(のがみ・すいよう)
愛媛大学俳句研究会・新京大俳句会・noi・櫟俳句会。ぜんぶできるようになります。