団欒も夜業も同じ灯の中に 抜井諒一【季語=夜業(秋)】

四 テクスト分析

    初夏の海

 「初夏の海」は、海と空という大きな景から始まり、身近な生きものへと視線を近づけ、最後には再び遠い海へと視線を開いてゆく構成を持つ章である。冒頭の〈ぐつと近づく初夏の海と空〉は、章題と直接的に呼応しながら、海と空を「ぐつと近づく」ものとして描くことで、読者をその世界へ引き込む。続く〈白靴の知らざる森の暗さかな〉では、「海と空」という開放的な景から一転して「森の暗さ」へと視線が移り、明るい夏の世界のなかに潜む未知のものへと導かれる。「白靴」と「森の暗さ」の対比も含め、この二句は、本章における身近な風景を新たな目で捉える視線を示している。また、「初夏の海」は章全体の舞台を限定する題ではなく、さまざまな場所や生命が現れる夏の世界への入口として機能するように思われる。

 とりわけ目立つのが、蟻を詠んだ七句である。〈夕暮やまだ働いてをりし蟻〉から〈上り来し蟻と旅塵を払ひけり〉まで、蟻は働く、列をつくる、食べる、もがく、巣を失う、死に集まるなど、さまざまな姿で描かれる。これらは蟻という同一の対象を繰り返し詠むことで、生命の活動から死までを連続的に見せている。海や空から始まった章の視線を一匹の蟻へと縮小することで、普段見過ごされる小さな生命にも一つの世界があることを感じさせるのである。

 一方、蟻の句が「見る」ことによって小さな生命を捉えるのに対し、蟬の句は「聴く」ことによって夏を捉える。〈空蟬のみな天辺を見てをりぬ〉〈呼吸音其外一切蟬時雨〉〈蟬の声押し戻したる別の蟬〉〈夕蟬の鳴きつつ鳥に喰はれけり〉と続く蟬の句は、盛夏の音を章のなかに定着させる。「蟬」と旧字体で表記されていることも、〈ゆふぐれ〉〈をりぬ〉などの表記と響き合い、夏の情緒を強めていると考える。蟻による「小さな生命を見る」視線、蟬による「夏の音を聴く」感覚が交わることで、本章の夏は視覚だけでなく聴覚を伴った身体的な季節として立ち上がる。

 そして終幕の〈遊船の足で押されて出航す〉〈窓開けて波音遠き夜の秋〉では、視線が再び大きな空間へと戻ってゆく。冒頭の〈ぐつと近づく初夏の海と空〉に対し、最後は「波音遠き」となることで、近づいてきた海が今度は遠ざかってゆく。さらに「夜の秋」によって初夏から夏の盛りを経て秋の訪れへと時間が移り、次章「銀河の中」につながる夜の広がりも生まれる。海と空から始まり、蟻や蟬という小さな生命を経て、再び海、夜、そして銀河へと世界を広げる構成によって、本章は一つの季節を描きながら、身近な生命とそれを包む大きな世界とを結び付けているのではないだろうか。

    銀河の中

 本章「銀河の中」では、花火が一つの大きな舞台装置として機能している。〈消えさうな流燈ばかり見てしまふ〉〈山の影もろとも墓を洗ひけり〉〈土地の酒川に呑ませる施餓鬼かな〉〈霊棚と声を出さずに話しけり〉と、死者や祭祀に関わる句が続いた後、〈飽きてより線香花火よく爆ぜる〉から花火の連作へと移る。〈花火待つ夕空に村長の声〉〈まだ鳶が弧を描くばかり花火の夜〉によって、花火そのものがまだ現れない「待つ」時間から始まり、〈開くたび大きくなりぬ揚花火〉〈揚花火花に蝶々になりにけり〉〈いろいろな花火のどれも同じ音〉と、その姿や音が次々に展開されてゆく。そして〈大花火消え脱穀となる煙〉〈万の貌花火の色となりにけり〉〈花火果て村埋め尽くす水の音〉に至ることで、花火は単なる一夜の景物ではなく、村全体を包み込むほどの大きな出来事として描かれる。

 特に注目するべきは、花火が「見る」対象であると同時に、音や人の気配を集める装置となっている点である。花火を待つ村長の声、花火の音、歓声、花火が終わった後までが一続きに描かれることで、一つの夏の夜が立体的に立ち上がる。また、花火が〈万の貌〉をその色に変えてしまうように、個々の人間や風景を一時的に同じ光の中へ包み込む働きも持つ。その意味で花火は、後半に置かれる〈団欒も夜業も同じ灯の中に〉にも通じる、本章における多くのものを一つの光の中に置く舞台装置と見ることができる。

 一方、本章は句数が奇数であり、最後の〈冬近し河原の石のみな白し〉が明確な締め句として目立つ。〈冬近し〉は、それまで続いてきた秋の景からさらに季節を進める季語である。冒頭の「今朝の秋」から始まり、花火、野分、秋蝶、秋日和、稲刈、茸、霧、秋燈、月、柿、木の実、紅葉と、秋のさまざまな相を描いてきた章が、最後に「冬近し」と告げることで閉じられるのである。中七・下五の〈河原の石のみな白し〉は、それまでの華やかな花火とは対照的である。花火が一夜だけ強烈な光を放つのに対し、冬を前にした河原の石は静かに白く、動かない。〈万の貌花火の色となりにけり〉という鮮烈な世界から、最後には「みな白し」という単純な色彩へと収束するのである。この白さには、秋の終わりと冬の到来を予感させる冷たさと静けさがある。

    魚族の目

 本章「魚族の目」では、冬という季節のもつ澄明な知覚を媒介として、人間と自然、生き物と世界との関係が深く掘り下げられる。章題〈魚族の目なべて冬青空の色〉は、その中心に置かれるべき一句だろう。ここで描かれるのは魚の姿ではなく、その「目」に映る世界である。魚族の目が「冬青空の色」を帯びるという把握によって、見る主体と見られる対象との境界が静かに反転する。

 この「視線」の問題は章中で繰り返される。〈剥製の鹿と目の合ふ暖炉かな〉では、人間が鹿を見るだけでなく、死してなおそこにある鹿とのあいだに「目の合ふ」という関係が成立する。また〈見つめられ潜る外なきかいつぶり〉では、見る側であった人間が「見つめられる」側へと移される。〈鳰潜るたび日輪に小さき穴〉においては、鳰の一挙手が「日輪」にまで作用し、世界そのものの見え方を変えてしまう。生き物は自然の一部分として客観的に眺められるのではなく、それぞれ固有の身体と知覚をもって世界に参与する存在として現れている。

 さらに本章の冬は、〈冬紅葉から明るさの剥落す〉〈寒林に生えたるもののみな尖る〉〈玄関に入りて雪眼となりにけり〉に見られるように、寒さはものの色、光、形、さらに身体感覚までを研ぐ。〈和紙ほどの光の洩るる冬紅葉〉〈枯蓮の茎の中なる水あかり〉といった句では、世界の表面を覆っていた余分なものが削ぎ落とされ、その内部に潜む微かな光までが知覚される。冬とは、世界を暗くする季節であると同時に、世界をより鮮明に見るための季節なのである。

 この意味で、「魚族の目」は魚を詠んだ一句を章題にしたものにとどまらない。それは、人間の目だけを世界を見るための唯一の尺度とせず、魚、鳥、獣など異なる身体をもつ生き物の側へ視線を移しながら、世界の見え方そのものを問い直す試みなのである。人間が自然を観察するのではなく、自然の側から人間もまた見返される。その往還のなかで、作者は「見る私」と「見られる世界」の境界を融かす。本章の達成は、冬景色を精緻に写生したことだけにあるのではない。むしろ、冬の澄んだ光と生き物の身体を通して知覚する主体そのものを変容させるところまで、句の方法を押し広げている点にある。

    一本の草

 本章「一本の草」では、春の生命が次々と動き出してゆく過程が、一つの生命から世界全体へと視野を広げながら描かれてゆく。章題となる〈一本の草の周りの雪解かな〉は、その構造を象徴する一句として見ることができる。季節の変化である「雪解」が、一本の草の周囲から始まるように捉えられている。春は抽象的な季節として到来するのではなく、微小な生命の変化としてまず現れ、そこから世界全体へと波及してゆくのである。

 実際、本章には「動き」を示す句が多い。〈残雪やがりがり延びてゆく轍〉〈のぼりゆく煙重たき遠霞〉〈蛇穴を出づしばらくは日にあたる〉〈遠ざかる石鹸玉もう風のもの〉など、雪解けとともに自然界のさまざまなものが動き始める。そして〈四肢も尾も青くなりゆく蛙の子〉〈白となり黄となり遠き蝶の影〉のように、生命そのものが変化しながら春へと移行してゆく。前章「魚族の目」において、冬の澄明な知覚を通して「見る」という行為そのものが問い直されていたとすれば、本章ではその世界が動き出し、生成してゆく姿が前景化していると言えるだろう。

 また、本章では自然と人間の生活がより接続される。〈強東風に小芋の如き園児たち〉〈人の顔ばかり見てゐる入学子〉〈新社員がぶがぶ水を飲んでをり〉と、園児、入学子、新社員という人間の成長や社会への参加が、春の生命の活動と並置される。ここでは人間だけが自然の外側にいるのではなく、子どもや新社員もまた、芽吹き、動き始める生命の一つとして捉えられている。〈広げたる地図に集まる木の芽風〉から〈春の旅大きな雲がついて来る〉〈どの道も行く手明るき春の山〉へと展開する「地図」「道」「旅」のモチーフも、人間が春の世界へ踏み出してゆく運動を支えている。

 この動きは、次章「花下残影」への重要な助走にもなっている。本章では、草、芽、蛇、蛙、蝶、鳥、子ども、人間、旅と、春の世界が次々に生成し、個々の生命が活動を始める。その先に待つのが、人々が桜の下に集う「花下」である。「一本の草」が一つの生命から世界の春を立ち上げる章であるなら、「花下残影」は、その春の生命が人間の集う一つの場へと結晶し、さらに「残影」として記憶されてゆく章と見ることができる。「見る」ことをめぐる三章から、「動き出す」四章を経て、「集い、残る」五章へ――本章はその転換点として、春という季節の到来を単なる季節描写に終わらせず、生命と人間の世界がともに動き始める過程として描き出している。

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