神保町に銀漢亭があったころ

神保町に銀漢亭があったころ【第128回】井越芳子


光の輪

井越芳子(「青山」副主宰)


「鮎の正しい食べ方は頭からガブリと食べるんだよ~」と聞こえてくる声に一気に心が反応した。

大田原市箒川の松原簗。当時、俳人協会理事長で「春耕」主宰の棚山波朗さんが結社の吟行に誘ってくださった。マイクロバス一台で東京を出発。鮎飯を炊くためのお米も積み込まれていた。秋の鮎吟行のこの一日は、終始その人の声が中心だった。その声を中心に次々に光の輪が生まれてゆくようだと思った。

その声が、伊藤伊那男さんであることをあらためて言うまでもないだろう。

平成14年のことである。

その後も、棚山さんは吟行や小酌の会に誘ってくださった。その席には、必ず伊那男さんがそばにおられた。理事長にとって伊那男さんはなくてはならない存在なのだなあと思った。ある日、オープン間近かの「銀漢亭」に誘ってくださった。日本酒、焼酎、ウイスキー、ビールのサーバーがすでに並んでいた。一人一人に用意される小さな籠にお金を入れておけば、注文する度に精算してくれるシステムだと伊那男さんが説明してくださった。なんだか楽しそうだと思った。

「銀漢亭」がオープンしてからも、時々、誘ってくださった。

伊那男さんの奥様は、お美しくて華やかであった。そして、結社の方々が厨房の内と外で忙しそうに働いておられた。とても楽しそうだった。

もし、「銀漢亭」が勤務先の俳句文学館の近くにあったら、選びぬかれた美酒と伊那男さん手造りの旬の美味しいお料理と、伊那男さんの声のするお店に、毎日立ち寄っていたかもしれないと想像するとちょっと怖い。

銀漢亭の灯を遠くに見ながら通りすぎた日も、近くに見ながら通り過ぎた日も、今では懐かしい日々となってしまったが、伊那男さんの声に生まれ続ける光の輪は大きくなってひろがってゆくばかりだと思う。


【執筆者プロフィール】
井越芳子(いごし・よしこ)
公益社団法人俳人協会評議員 「青山」副主宰 
日本文藝家協会会員 国際俳句交流協会会員
著書 句集『木の匙』『鳥の重さ』(第31回俳人協会新人賞受賞)
『雪降る音』『自註現代俳句シリーズ 井越芳子集』ほか


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