都市計画会社勤務の恋人はプライドの高い人だった。正月の三日に突然届いた「今日逢えない?」というメールに対し「実家に戻っているから無理」と返信した。「君に逢うために、どれだけ苦労して予定を空けたと思っているんだ」「あらかじめ言ってくれていたら空けておいたのに」。そんなやりとりの後に連絡は途絶えた。春になって機嫌が直った恋人と久しぶりに逢ったものの「俺は忙しいのに逢ってやっているのだから、俺に合わせろ」と言われ、傷ついた。夏の頃には、呼び出されて夜の11時に部屋まで逢いに行ったのに、マンションの前で2時間も待たされた。仕事のトラブルで家に帰る予定が遅れたとのこと。秋には海に行く約束が当日にキャンセルされ、一人で湘南の海を眺めた。夕方、「6時までに上野に来られるか」というメールがあったが「今、藤沢なので7時には行けます」と返信すると「もういい」という回答。そんなこんなでまた冬がきた。
誕生日から数日過ぎた金曜日のことである。恋人に「いつもの喫茶店で待ってます」とメールをしたのは月曜日である。なんの返信も貰えないまま、綺麗に着飾って珈琲を飲んでいた。光沢のある黒い飲み物がカップの中で揺らめき、葉牡丹のように締まって見えた。今日も逢えないだろうという諦めと共に。するとギタリストから「とびっきりの赤ワインをご馳走するから逢おうよ」とのメールがきた。音楽雑誌に「噂のギタリスト」として掲載されたとかで、本人にとってもお祝いの日だったらしい。「すぐ行く」とメールを打ったところで、恋人から「終電に間に合えば深夜の1時頃に逢えるかも」とのメールがあった。「ごめんなさい。急用が出来たので逢えません」と返信した。プライドの高い彼の気分を害したことは言うまでもない。私は結局、ギタリストの方を選んだのだから。
葉牡丹の渦は、さまざまな想いを抱き込んで濃い色となる。以前の私ならば、ギタリストの誘いを断って待っていたであろう。恋人からの曖昧なメールを拒否した時、自分の気持ちにはっきりと気付いた。ギタリストの奏でるギターの音色は葉牡丹の渦のようで、深く深く、私の心を巻き込んでいたのだ。将来のこととか結婚のこととか、どうでも良くなって、もう一度だけ最後の青春に向かって走っていった。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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>>〔164〕成人の日は恋人の恋人と 如月真菜
>>〔163〕逢はざりしみじかさに松過ぎにけり 上田五千石
>>〔162〕年惜しむ麻美・眞子・晶子・亜美・マユミ 北大路翼
>>〔161〕ゆず湯の柚子つついて恋を今している 越智友亮
>>〔160〕道逸れてゆきしは恋の狐火か 大野崇文
>>〔159〕わが子宮めくや枯野のヘリポート 柴田千晶
>>〔158〕冬麗や泣かれて抱けば腹突かれ 黒岩徳将
>>〔157〕ひょんの笛ことばにしては愛逃ぐる 池冨芳子
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>>〔150〕愛に安心なしコスモスの揺れどほし 長谷川秋子
>>〔149〕緋のカンナ夜の女体とひらひらす 富永寒四郎
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