野遊のしばらく黙りゐる二人
涼野海音
(『虹』)
涼野海音さんは、昭和56年香川県高松市生まれ。大学、大学院では、高野素十を研究。「白桃」「火星」などを経て、現在「晨」同人。「梓」「いぶき」会員。平成23年第3回石田波郷新人賞、平成25年第4回北斗賞、平成28年第4回星野立子賞新人賞、平成29年第5回俳句四季大賞新人賞、同年第1回新鋭俳句賞準賞、平成30年第31回村上鬼城賞正賞を受賞している。若手俳人の賞は総嘗めである。平成28年に、第一句集『一番線』を出版。今年の令和7年1月には、第二句集『虹』を出版。その「あとがき」によれば「俳句を始めて二十年となる」とのこと。現在44歳。まだまだ期待の若手である。
涼野海音さんは、私が俳句を詠み始めた20代の頃、総合誌で名前を見かけ、年代が近いこともあり強く意識した。その後、20代の全国の俳人に呼びかけ結成された「ルート17」のネット句会にてご一緒したのだが、お会いする機会がなかった。海音さんは、様々な俳句大会の賞には、必ずと言っていいほど入賞している噂の俳人であった。平成25年、私も海音さんも句歴10年目ぐらいの頃であろうか。文學の森主催の若手の登竜門「北斗賞」に応募したところ、海音さんが受賞し、私は次点であった。同時期には、「週刊俳句」の10句競作という企画に参加され、大賞を受賞している。
山眠る絵本のなかの雪とけず
鳥雲に雫のやうなイアリング
啓蟄や陽の差してゐる兎小屋
花の種蒔いてしづかな日曜日
滅びゆく星の桜を仰ぎけり
その時の作品で共感した句だが、「上手いな。これは勝てないな」と思った。私の心のライバルであり、憧れの人、それが海音さんである。
私が句集を出版した令和2年、海音さんより手紙を頂いた。ご自身の主催している超結社通信句会「雫の会」への参加のお誘いであった。手紙には、私が平成17年に受賞した朝日俳句新人賞奨励賞の時より注目して下さっていたことも書かれていた。さらには、海音さんも短歌を詠まれていたことや、大学院出身であることなど、共通点が多いことも知った。その後のメールのやり取りで、星野立子新人賞に挑戦されてはどうかとの勧めもあり、応募したところ、受賞してしまった。思いがけない賞の受賞は、海音さんの励ましによるものである。6歳年下で、句歴も同じ20年だが、私にとっては、先輩のような方である。
ご縁がありながらもなかなかお会いできず、ようやくお目にかかれたのは、2年ほど前の夏の頃である。第19回日本詩歌句随筆評論協会賞俳句部門奨励賞を受賞され、その授賞式での席であった。ちなみに私の夫の飯田冬眞は努力賞だった。スーツ姿の海音さんは、、若々しく爽やかな雰囲気の人であった。心のどこかで私と同じく不器用な人と思っていたのだが、話が弾んだ。その日以来、ライバルというよりは同志になった気がしている。
涼野海音さんの句は、その俳号に相応しく、涼しい海の音が響く。第一句集『一番線』は、評価が高く話題となった。
空海の生まれし国へ帰省かな
屋島より雲伸びてゐる盆休
豊年や海見えてきし赤穂線
出身地である香川県は、空海の生まれた土地。瀬戸内海を望む歴史ある屋島、その海の向こうには赤穂線が走る。
東京を遠しと思ふ落葉かな
四国にて俳句を発信し続け、なかなか会うことのできない句友達を思ったのだろう。東京の句会に出られない悔しさと孤独を落葉に託した。
春立ちにけり拳玉の長き紐
燕来る調理室から笑ひ声
すれ違ひたる遠足のもう遠き
セーターを脱ぐ満天の星の下
ポスターの尾崎豊と扇風機
青春性を感じさせる若々しい詠みぶりは、爽やかに胸を打つ。
春の雪キリンに長きまつげあり
いかなごのどの眼も澄んでゐたりけり
春寒し蛸せんべいに蛸透けて
秋草の揺れの移れる体かな
写生の眼を尖らせつつもその言葉には透明感があり、景に溶けてゆくかのよう。
鬼の子の前で挨拶交はしけり
桜蘂降る妹のやうな人
海の日の一番線に待ちゐたる
待ち人の来ず赤い羽根吹かれをり
ボート漕ぐ後ろに森の暗さあり
〈鬼の子〉は、蓑虫のこと。心に蓑を被ったままのゆらゆらとした挨拶。打ち解けても妹のような存在になり発展しない恋。期待に膨らむ海の日のホームでの待ち合わせ。赤い羽根とともに吹かれる恋の行方。ボートに乗るような恋仲になってもある背後の森の暗さ。不安定な恋の鬱屈を明るく見せる景の描写には、いつも見えない風が吹いている。
それから、十年の時を経て第二句集『虹』を出版した。「あとがき」には、「第一句集を出版後、六つの超結社句会(通信句会を含む)を立ち上げた。『足は地元に、目は全国に』をモットーに、全国の方、百三十名と超結社句会をして早十年が経つ。これからも仲間とともに精進したい」と記す。
猫の子に水平線の遥かなる
人日の夕日へ向かふ鳴門線
龍馬より若し口笛海へ吹く
給油所にとどく波音日短か
どの島も灯りて年の逝きにけり
四国の風土に根ざしつつ、その眼差しは海の彼方を見ている。
いくたびも虹仰ぎたる背広かな
梅雨寒の背広に街のにほひあり
仕事に疲れ、失いつつある若さに焦ることもあるのだろう。でも前向きに、己を振るい立たせるように俳句を詠む。
草よりも髪揺れやすき泉かな
滴りのまはりの音の消えにけり
どの雲もおのれ汚さず青芒
炎帝に山河は傷を隠さざる
天の川にはとり白きまま老いぬ
日差しいま水のかがやき障子貼る
透明さは失わずに、揺れや翳り、傷、老い、希望といった心象風景もしっかりと詠む。その表現は、的確な景の描写により詩情を深めた。
月さして亡き人の杖くもりなき
水底は死後のあかるさ合歓の花
アステカもインカも滅び雲の峰
知人の死を経て感じた無常観と永遠性。命とは何か、人とは何かを景に託した。
初恋は語らず風のクローバー
色あせぬままペン立ての愛の羽根
『一番線』の恋の行く末は分からないけれども、海音の恋はまだまだ続く。
野遊のしばらく黙りゐる二人 涼野海音
〈野遊〉は、春に山野に出かけ、草花を愛でたり食事をしたりして楽しむことである。現在では、ピクニックとして詠まれる。古代においては、農耕に先駆けて野の生命力を身に宿す儀礼的な意味があった。後に、修験道の山開きと結びつき、山の神との供食や川での禊なども行うようになる。春の暖かい日に野原や河原で茣蓙を敷いて飲食をするのは、解放感もあり楽しいものだ。
作者の住む香川県高松市は、瀬戸内海を臨む港町として発展し、都会的な街並みが広がる。市街地を過ぎると小高い山や野原があり、地元の人が楽しめるハイキングコースがある。観光地化された遍路寺も野趣に富んでおり、付近の野では、弁当を広げたり、子供や犬を遊ばせたりしている人も多い。掲句は、そんな野原に座って恋人としばしの休憩をしている時のことを詠んだのだろう。屋内の喫茶店などと違って、野外での飲食は無言になる刻がある。風の音や草木の揺れ、さらには遠くの山々など、五感を揺さぶるものが多い。会話が風に流されても気にならないのが普通である。「本当にいいところだね」と言った瞬間には、無言になるものだ。だが、作者はその沈黙が気になったのだ。何か話さなければとか、機嫌を損ねたのかとか、告白をするなら今だとか、様々な想いが渦巻いていたに違いない。話したいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。恋の始まりを予感させる沈黙である。あるいは、会話が続かないことに焦り、失恋の予感を抱いたのかもしれない。同じ景を共有している時の沈黙は、恋の分かれ道となる。さて、どちらだったのだろうか。
私は、風や川の音といった騒めきと景色の良い場所では、人の会話が聞き取れなくなることがある。視覚・聴覚に気を取られて、人の言語が自然に融合してしまうからだと理解している。そのため、ピクニックでは無言になることが多い。一緒に居る相手はきっと、ふいに寡黙になった私に焦ってしまったことだろう。自分の無意識な沈黙により、手を握られて恋に発展したこともあれば、「俺と居ても退屈だろう」と振られたこともある。逆に、会話がないままの私の無言に付き合ってくれて共感したこともあれば、急に肩を抱かれて驚いたこともある。
そもそも私は、人と会話をするのが苦手なのだ。恋をしていれば尚更のこと。恋愛初期に必ずある沈黙をどう動かすか、それは恋をする全ての人の課題である。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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