虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼【季語=虫の夜(秋)】

  

虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし   山口超心鬼

 掲句は、子供の様子を詠んだ句なのかもしれない。泣いている子供を母親が寝かせつけようとして添寝したところ、子供は母親の乳房をいじりながら眠ってしまった。という情景かと思われる。乳離れして久しい子供でも甘える時は乳房をいじる。猫が甘えるときに肉球で乳を揉むのと似たようなものである。柔らかい乳房は安心感と心地よさをあたえる。外では、しんしんと虫が鳴いている。もう乳の出ない乳房をふわふわ押す行為と虫の音の静けさが響き合う。

 構造としては、「虫の夜を眠る」「乳房を手ぐさにし」という、二つの事柄が盛り込まれている。この冷静な詠みぶりは、子供のことではなく、作者自身の描写のようにも思えてくる。子供の時のことの回想でもあるし、今の自分のことでもあるのだろう。昔は、母の乳房を手遊びにして眠っていたが、今は妻の乳房を手なぐさめにして眠っているのだ。虫の夜は、淋しさと甘えを誘う。母に甘えた夜も虫が鳴いていたのだろう。二つの事柄の描写が、過去と今を行き来しているようにも思わせてしまうのだ。

 男性に限らず、人は他人の心臓の音を聞くと安らぐものである。それは、母親の胎内にいた時の記憶が残っているためと言われている。女性もまた、男性の胸に顔を埋めると安心して眠れる。若い頃は、頼もしい男性の胸板に頬を押し付けて、筋肉をさすりながら眠ることを夢見たものである。

 私の友人女性は、30歳を間近にして5歳年上の営業マンと知り合った。大手企業に勤務し、課長に就任したばかりの独身男性だ。そんな優良物件には裏があるはずだなどと笑っていたが、話はとんとん拍子に進み、あっという間に結婚してしまった。結婚して半年が過ぎた頃、「あの人は、子供なの。ハンバーグとオムレツが好きで、珈琲にはミルクと砂糖をたっぷり入れるの。夜だって、私の胸の谷間に顔を埋めていないと不安で眠れないのですって。ちょっとマザコンっぽいところもあるの」とぼやいていた。友人女性も働いているので、甘えたい夜もあるのだが、先に甘えられてしまうと甘えられなくなるのだという。二三年ほど、惚気とも愚痴ともつかない話を聞かされていたが、二人の間に子供が生まれてからは疎遠になってしまった。きっとうまくやっているのだろう。

 相手の男性とは一度会ったことがある。大学時代はラグビー部に所属していたためか、がっちりとした体格で頼もしい感じがした。そんな男性がハンバーグとかオムレツを食べる姿を想像したら、可愛らしくもある。本当にマザコンだったのかどうかは分からないけれども、男性というものは、何歳になっても子供のままということだ。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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