【冬の季語=三冬(11月〜1月)】マスク
【解説】演劇におけるマスクの歴史は、古代ギリシャにまでさかのぼります。古代ギリシャ演劇は、屋外の大劇場で演じられていて、なんといっても最大50人ほどの合唱隊が見もの(聞きもの?)でした。当時は、コロスと呼ばれており、英語のコーラスの語源となっているものです。
一方で、戯曲を演じる「俳優」たちは、仮面(マスク)をかぶっていました。使用後は、神様(ディオニュソス)に捧げられたので現存はしていないのですが、祭儀にはとても重要な役割をになっていたようです。ギリシア語では、仮面を「ペルソナ (persona)」と呼ぶのですが、とどのつまり、「自分以外の人間=ペルソナ」に変身するための道具が、マスクだったというわけです。
そんなわけで、しばしば古代ギリシャ劇は、やはり「合唱隊」をもつ日本の能と比較されたりもします。能でもシテ方がマスクをかぶって、「役」を演じます。
いずれにしても昔の演劇は、いまでいう映画やアニメのようなメディアだったのかもしれません。限られた道具のなかで、幽霊とか神様とか、超越的なものを表すために、観客のイマジネーションを掻き立てなければならないところ、その手っ取り早い道具がマスクだったというわけです。
しかし、現代の「マスク」は、これと反対の方向を向いているようにも思えます。なぜなら、自分の中に侵入してくる何者かをシャットアウトして、自己の生命や健康を維持するための道具が、マスクにほかならないからです。自分以外のものに変化するためではなく、自分自身を保つためのマスク。そうそう、虚子には〈マスクして我と汝でありしかな〉がありました。
しかしここで思い出すのは、ちょうどCovid-19の直前に流行した映画「ジョーカー」の主人公アーサーでしょう。
映画の舞台は1981年のゴッサムシティですが、彼が犯す殺人は「富裕層への復讐」として報道されるなど、格差の広がる現代を描いているとも十分に受け取れます。
そしてアーサーが憧れのコメディアン(マレー)の番組に出演したときに、カメラ越しに滔々と吐きつづける社会への憎悪。マレー演じるロバート・デ・ニーロがなかなかいい味を出しています。年取ったよねえ。
アーサーは、ピエロのメイク(=マスク)をすることで、自分を痛めつけようとする「社会」に防御しながら、なんとか自分をぎりぎりのところで保とうとしています。しかし、それが限界を超えたとき、彼は凡庸な死を選ぶのではなく、スペクタキュレールな、つまり非凡な死を選ぼうとします。
アーサーの側に立つならば、誰かを嘲り笑う、見下すという行為をエンターテイメントにするということ自体が、現代では一種のマスクとして機能しているわけですね。この「自分を保つためには誰かを傷つけずにはいられない」というマスクの特性は、じつは冒頭で見たギリシャ演劇のそれと、そう遠くないところにあるのかもしれません。
なぜならば、ギリシャ演劇において、少なくともアリストテレスの詩学理論においては、演劇とは「葛藤」の劇だからです。アンティゴネは、どうしても兄を埋葬したいけれど、それは国家の法に反してしまう。このような倫理的葛藤が生まれるところに、「その人らしさ」つまり「ペルソナ」が生まれるのですね。そしてそれを「マスク」によってわかりやすく表現してきた。
一見すると「顔」の大部分を隠すことで、個性を没個性化しているように見える(風邪防止のための)マスクですが、家でじっとしていることができればマスクの必要はないことを考えると、そこには人間が社会活動に出ることによって、「誰かを傷つけずにはいられない=風邪をうつしてしまうかもしれない」というリスクを「誰かに傷つけられるかもしれない=風邪をうつされるかもしれない」という恐怖とともに抱えるという二面性があることが見えてきます。
自己と他者の境界に差し挟まれる「マスク」は、じつは自己が他者へと侵入し、他者が自己へと侵入してくるという相互作用のなかで、むしろ自己は「変化」するものである、という認識を際立たせてくれるもの、というパラドキシカルな一面もあるのではないでしょうか。
2020年、Covid-19が世界を席巻したとき、それまでに流行したウイルスにも比して、マスクの着用が推奨され、義務付けられました。アベノミクスならぬアベノマスクなる造語までが登場しましたが、場合によっては品質の悪いマスクが、しかもかなりの時間を要して届いたことで、政治家の無能ぶりに対する嘆きがきかれたものです。しかも一世帯に二枚だけという…
マスク二枚さえ配れないのか、と誰もが呆れたものでしたが、よくよく考えてみれば、「保守」を自認する政治家が、マスクによる「変化」を嫌うのは当然のことで、正直にいえば一枚たりとも配りたくなかったのでしょう。マスクをつけること=「誰かを傷つけてしまうかも/誰かに傷つけられるかも」という点への配慮は、一時的に見れば、たとえばテレワーク促進などの労働者への配慮へとつながっていき、雇用者にとってみれば「負担」となるからです。
もちろん、このような「論理」の瑕疵を責め立てることは、ここではしません。たかがマスク一枚、と思うかもしれませんが、そこには社会のなかで生きることに関する倫理的な問いが、内包されているんですよね。以上、2020年から、マスクに対するいくばくかの考察をお届けしました。
【関連季語】風邪、咳、嚏、寒し、など。
【マスク(上五)】
マスクして我と汝でありしかな 高濱虚子
マスクして我を見る目の遠くより 高濱虚子
マスクして彼の目いつも笑へる目 京極杞陽
マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな 飯田蛇笏
マスク新し身に匂ふものこれのみに 能村登四郎
マスク白くいくさに夫をとられきぬ 加藤楸邨
大きなマスク息温かに人の喪ヘ 田川飛旅子
マスクして砕氷船のごと進む 林翔
マスクとる熔接工の眼が枯色 穴井太
マスクして人の怒りのおもしろき 上野さち子
マスクして人に逢ひ度くなき日かな 稲畑汀子
マスクしてものを一直線に見る 山田弘子
マスクするたび耳朶は生え変る 宇多喜代子
マスクして自分の顔を取りもどす 小倉通子
マスクしてものを言ふ口ありにけり 行方克巳
マスクして他人のやうに歩く街 山田佳乃
マスク押し進めるように歩む人 千倉由穂
【マスク(下五)】
福耳を引つぱってゐるマスクかな 下村非文
美しき人美しくマスクとる 京極杞陽
悲しみの目のきは立ちしマスクかな 老川敏彦
鞄抱き終電がへりマスクして 小澤實
逢ふときは目をそらさずにマスクとる 仙田洋子
【マスク(その他)】
失業をしてゐるマスクかけにけり 吉岡禅寺洞
新しきガーゼのマスク老婦人 京極杞陽
度外れの遅参のマスクはづしけり 久保田万太郎
口紅のなじみしマスクかくるかな 久保田万太郎
純白のマスクを楯として会へり 野見山ひふみ
腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ 岡本眸
ランジェリー売場をマスクして過る 斉田仁
江の島へ立体マスクして手ぶら 柳生正名
咳こぼすマスクの中の貌小さし 吉田鴻司
真夜中の大きなマスクの中のかもめ 攝津幸彦
哺(ふく)ます乳マスクの上の目だけで見る 竹中宏
正面の顔にマスクの大きかり 茅根知子
築地もはやマスクの中の凪ぎごこち 大塚凱
【マスク(二枚重ね)】
マスクしてマスクの人に目敏しよ 宮坂やよい
吊革のマスクに隣る吾もマスク 相子智恵
【マスクを使ってるけど他の季語】
あらたまの春のマスクや楽屋入 久保田万太郎
初詣マスク清らにかけにけり 吉屋信子
早咲きの梅にマスクを掛けぬ日々 赤尾兜子
豊年のけぶりの中にマスクして 岸本尚毅
春ひとり仮面(マスク)のコロナ映画館 大野泰雄
おののくやマスクあまねく受験生 青山ゆりえ