日の遊び風の遊べる花の中 後藤比奈夫【季語=花(春)】


日の遊び風の遊べるの中

後藤比奈夫(ごとうひなお)(けん

東京の桜は、今週、あっという間に咲き進み、そろそろ盛りを超えようとしている。ほとんどの桜の名所では、(座り込んでの)花見が禁じられ、おかげで桜は覆われることのない地の上、例えば街路樹であれば石の色の上に、庭園であれば土の色の、あるいは芝の色の上に、そして水の色の上に咲いた。ときどきはベンチなどを具合よく見つけて、プルタブの音をさせている猛者もいるけれど、総じて人の姿は少なく、見えたとしてもすぐに通り過ぎ、またライトアップなども常より限られ、染井吉野っていうのはこういう色なんだなと改めて思ったりする。

みなさん、再びの花の金曜ですよ。

去年の桜は、得体の知れない数字の中で家にこもる、ほんの少し前に咲き始めた。一説に最初の非常事態宣言は、花見での蔓延を防ぐ狙いもあったとかである。いずれにしても、その去年の桜が後藤比奈夫さんの生涯最後の桜となった。

日の遊び風の遊べる花の中

句は2010年、今から十一年前に出版された第十三句集『夕映日記』より。古今、桜をあと何回見られるだろうと考えることは詩歌ならずとも、よく行われてきた。それほどに、桜の季節というものが、花に気を取られ、花に占められる期間だからであって、加えて、咲き初めから二分、三分と咲き進み、満開へと向かい、さらには散り始めた途端に崩落へ向かう花の姿の印象的なためだろう。その1サイクルをもって「桜」とされ、その間のどの瞬間も目に留めたいと人は願う。

前回の「ハイクノミカタ」で、「初花がけん二、満開が比奈夫」と個人的な偏見を申し上げたが、「初花」の代表句があるけん二さんに比べて、比奈夫さんを「満開」と考えるのは、よりご本人のイメージによる。それを言えば、けん二さんにもさきがけの鋭さというような「初花」のイメージがあるのだけれど、それに対する比奈夫さんの「満開感」のようなものが、私にそういう偏見を植え付けたのだろう。

「満開感」は、この句からもよく感じられる。句の視界に入るものは、花、日、風。そのいずれも、部分でしかない。日と風は、もちろん全部をとらえようがないし、この句の主役である「花」も、「花の中」と表されることによって、その句の外へも溢れていることを示唆している。

画面いっぱいの花の景色に、遊ぶ日、遊ぶ風。

「遊ぶ」という言葉は擬人法で、本来、人に使われる以外は、その主体が本当に遊んでいるのか、あるいは働いているのか、知りようがないという点で虚だ。例えば「蟻が遊ぶ」と言った場合も、それは(蟻にその認識の差があるかはさらに謎だけれど)蟻にとっては仕事である場合も多い。そんなふうに、ちょっと句の臨場感を落とし、作者の独りよがりにしてしまいがちな言葉だ。

けれども、この句の「遊ぶ」は、句中で登場する唯一の動詞で他との比較がないことや、「遊び」「遊べる」というリフレインに、「花の中」と空間が区切られていることなど、さまざまのことが重なって、この句の中に限っては、日と風の動きが、臨場感と調和を伴って描かれることとなるから、俳句は不思議だ。

もちろん作者にはそこまでの意図や推敲はないかもしれない。一方、それを、いとも自然に行ってしまうところこそが、比奈夫さんの満開感のなせる技なのかもしれないとも思う。

的確な観察に、すこしの遊びやはみだしを加えて、それでもなお、読む側に作者の過剰な意図を感じさせない表現は、「上品さ」などと言ってしまうと、じゃああたしゃどうすりゃいいのよという気分にもなる。でも、積み重ねる作句の先に、そんなものが待っているのかもしれないと考えるのは、また楽しくもある。

週末、桜はどこまで進むかわからないけれど、あと残り何回か考えることよりも、また一回と数えることの方が、確実なことだ。そういえば、比奈夫さんは、実験物理学の人でもあった。

名所ではない近所の桜を通り過ぎるような、確実なお花見を、是非。

 『夕映日記』(2013年)所収

阪西敦子


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【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。



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