こうした複雑な心境のなか、千空は昭和24年(1949・千空28歳)に一度東京へと赴いている。
上京の主な目的は三つ。五所川原での書店開業に向けての取次会社の選定。吉祥寺に住む中村草田男への訪問。そして、片思いの相手・Aちゃんへの訪問であった。
10月31日
上京前に目星をつけていた取次会社は頼りなさそうなところだったので諦め、神田をぶらぶらしていた時に見つけた会社に商談を持ちかける。社長のいかにも金儲け主義な態度があまり気に入らなかったが、他に探すのも面倒になって結局商談が成立。本の取次先が決まる。
11月1日
いよいよ初めて、師である草田男と会うことになる。千空も自身の複雑な心境をなんとか打破したく、師のもとに直接赴いたのかもしれない。
自宅に付くと、玄関から直子夫人が現れる。千空が名刺を渡すと、ちょっと驚いた様子で声をあげ、奥の部屋にいる草田男へと呼びかける。草田男が奥から現れると、「よくおいでになられましたね」と静かに声を掛け、千空を客間へと案内する。
千空はこの草田男訪問を自身の日記で、「先生は常に一とすみに眼をやっていて、ぽつりぽつりと話される。ときどきついと僕の方を見る。実に誠実なまなざしである。ごまかしの利かない眼だと思った。熱のこもったことを、病人みたいに静かに話すのである」と記している。
千空と草田男の会話は俗っぽいことは話題にせず、芸術のこと、文学のこと、俳句のことに及んだ。そして、草田男は千空に向かってポツリとこう告げる。
「この頃、千空さんすこし焦り気味ですね。一つの場から一つの場に変るときは、大てい浪形にゆくんです、一句をつくる。おや前と同じどころだぞと思う。すると焦り出す。そしてスランプが来るんです。千空さんは焦らない方がいい。意識したところから作品を出発させないように。だから焦らない方がいいのです。」
千空はそれを受けて、「僕はこの頃迷いの雲がかかっているみたいで、以前みたいにぱっとゆかないんです。それになんだか雑用が多いものですから」と答えると、すぐに草田男も「そうですね、僕もこの4,5年というものは、及び腰で句をつくっている傾向でね」と答えて、とても暗い苦悩の顔をしたという。
11月2日
千空は片思いの相手のAちゃんへ会いに根岸へと向かう。千空は上京前、「母は僕にAちゃんをすすめている、Aちゃんに対する僕の心は複雑である。愛しているなんていう気持ちとも違うのだけれども、昔から僕の心から離れない人であった。Aちゃんは今東京にいる。(Aちゃんが)仮にほかの人と結婚するにしても、僕の心の一点を占めている、そのもやもやする一点をはっきり焦点に合せて見たいとの思いがしきりに動いている」とAちゃんへの一途な思いを記している。
けれども実際に再会したところ、よくある話といえばそうなのだが、Aちゃんは昔の青森のAちゃんではなく、東京で少し垢抜けたものの、「明るい親しみ深さが少なくなって、そのかわり利巧さにしっかりさが加わった感じ」の東京のAちゃんへと変っていた。
千空はAちゃんを美術展へと誘って、翌日一緒にデートすることになるのだが、変わってしまったAちゃんを受け入れるには、まだまだ時間が必要であった。結局、千空は最後までAちゃんへの思いは秘めたまま青森へと帰り、書店開業への業務に忙殺されていくのであった。
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