【第2回】
馬が馬でなくなるとき
(1993年七夕賞・ツインターボ)
夏は札幌、函館、福島、新潟、中京、小倉にある競馬場でのローカル開催が中心となる中央競馬。夏休みに旅行気分で各競馬場へ赴くファンも多い。私も2019年7月に福島競馬場を訪れ、いつもの東京競馬場、中山競馬場とは違った空気の中での競馬を楽しんだ。
その日のメインレースは七夕賞。俳句で「七夕」といえば初秋の季語だが、レースは新暦7月7日前後に行われる。そして七夕賞といえばツインターボという馬を忘れてはならない。
それは1993年の七夕賞。馬群の前の方でレースを進めたい馬(先行馬)が5頭出走し、大方の競馬ファンは「先行馬同士ハイペースで潰し合って、最後に後ろから抜け出した馬が勝つのでは」と考えたと思う。予想通り、5頭がスタート直後に前へ前へと馬体を押し上げていく。しかし、各馬の位置取りが落ち着くその前に、すっと1頭が先頭に立った。その馬こそがツインターボだった。
ツインターボはとにかく「逃げる」馬だった。デビューから引退までの間、出走したレースの殆どは「逃げ」のスタイル。競馬で「逃げ」を成功させるのは難しい。特にツインターボは他の馬に関係なくどんどん逃げるタイプの逃げ馬だったので、最後の直線に入る頃には失速し、馬群の後方でゆっくりとゴールすることが多かった。「またツインターボが大逃げして大負けしてるよ」と笑う人は多かったが、それも一種の様式美として定着していた。
七夕賞も同様。先頭で走れるのは最終コーナーまでだろうと思っていた。しかし、直線に入ってもツインターボの脚色が衰えないことに気づいた観客たちのどよめきが福島競馬場に広がる。逃げ切れるか、捕まるか。そのスリルは、逃げ馬を応援したくなる理由のひとつでもある。大敗北か、大勝利か。結果、ツインターボは最後まで後続に影を踏ませることなく2年ぶりの勝利を果たした。大敗北も覚悟の上で、それでも自分にはこれしかないのだという道を常に貫いたのがツインターボなのだ。
美しき距離白鷺が蝶に見ゆ 山口誓子
作者曰くこの「美しき距離」は「非常にいい距離」であるという。「適切な距離」と言い換えても良いだろう。この程良い距離を「美しい」と表現することで、句全体の美しさも立ち上がってくる。
競馬の「逃げ」にも適切な距離は存在する。後続を大きく引き離して逃げ切るのが得意な馬もいれば、少ないリードで最後まで粘り通すのが上手な馬もいる。勝つために、後続と適切な距離を保ってレースを進めるのだ。
ツインターボにとって、何馬身、何十馬身も突き放す大逃げこそが「美しき距離」なのだと私は思う。そこに勝ち負けは一切関係ない。負けたとしても、それでも良い。「逃げ」の競馬に徹底するその潔さ、一途さこそがツインターボが今の時代にも愛される理由なのだろう。誓子には白鷺が蝶に見えるように、私にも何度レースを見返してもツインターボが馬ではない何かに思える瞬間が確かにあって、それはツインターボが「美しき距離」で逃げていた証なのかもしれないとふとそんなことを思った。
【執筆者プロフィール】
笠原小百合(かさはら・さゆり)
1984年生まれ、栃木県出身。埼玉県在住。「田」俳句会所属。俳人協会会員。オグリキャップ以来の競馬ファン。引退馬支援活動にも参加する馬好き。ブログ「俳句とみる夢」を運営中。
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