新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無 佐藤智子【季語=新蕎麦(秋)】


新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無

佐藤智子


口語俳句で上五に四音の季語を持ってきたいとき、〈や〉を使うかどうか迷うことがよくあります。たとえば、「春雷(しゅんらい)」という季語。文語にならないように「春の雷(はるのらい)」とすることもできますが、もし中七の最初の文字が漢字だとしたらどうでしょう。文語でつくるときも同様ですが、読みづらいかな、切れが弱いかな、と考えてしまいませんか。

こんな時、私の頭の中の天使と悪魔はこう囁いてきます。

天使「〈や〉を使った俳句の型だと割り切ろう!〈かな〉や〈けり〉に比べたら、口語と共存していても違和感がないと思う人も多いだろうし、使ったっていいじゃない。」

悪魔「おいおい、〈や〉は文語だぞ。使いやすいからといって甘えるな。口語でつくるなら、〈や〉以外の口語の切れ字を見つけるべきだ。」

皆さんは、天使と悪魔ならどちらの考えに近いですか。〈や〉を使った口語俳句は、掲句のように句集に収録されているものだけでなく、俳句投稿サイトや句会レベルでも多数見られます。著名な俳人の中にも文語の〈や〉と口語の共存を良しとする方はいらっしゃいますし、口語俳句を中心に作られている方でも、〈や〉をまったく使わない方は少ないのではないでしょうか。

かく言う私は、今まさに天使と悪魔の中間で彷徨っているところです。基本はアリだと考えているため、句会や俳句投稿サイトに出す句であれば許容していますが、賞に出す連作では〈や〉、〈かな〉、〈けり〉をはじめとする文語の切れ字を禁止するマイルールを設定しています。形式だけに囚われるのはどうなのだろうと思いながらも、どうせなら切れも口語でつくりたいという思いも捨てられず、現状はそのようなスタンスをとっている次第です。かと言って、田島健一さんの「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」の〈ぽ〉のような発明はそうそうできるものではありませんし、毎回体言止め以外で切れをつくる難しさには頭を悩ませています。

〈や〉を使った口語俳句の中でも、一句の中の文語と口語のギャップが大きい掲句。第五回で紹介した正木ゆう子さんの糸瓜の句もそうですが、私はこのギャップが大きければ大きいほど句におかしみが生まれると考えています。「季語+や」という文語の俳句によく見られる形で始まっているのに、フレーズは現代の話し言葉で親しみやすい。堅苦しいと思っていた上司の趣味がお菓子作りだったみたいな感覚です。違いますかね。ともあれ、この空気感は他の短詩や伝統俳句にはない、現代俳句にしか出せないものではないでしょうか。

新蕎麦全部全部噓じゃないよ南無

新蕎麦全部全部噓じゃないよ南無

新蕎麦全部全部噓じゃないよ南無

新蕎麦全部全部噓じゃないよ南無

このように、試しに〈や〉を口語の切れ字に置き換えてみると、切れ字としての〈や〉の特異性を改めて意識させられます。上記の4つの例では、切れ字が口語になったことで、句がより軽やかな雰囲気にはなりました。しかし、いずれの例においても「新蕎麦や」にあった詠嘆の意味は弱まり、切れの効果も小さくなっているという点は否めません。新蕎麦への感動が薄れたことで、読者が感じる新蕎麦の香りもやや薄れたような気さえします。また、句にあったちぐはぐ感も解消されてしまい、一読したときの引っかかりも弱くなってしまいました。この比較を見ると、普段の私のように「口語俳句だから文語の切れ字は使わない」と形式にこだわるのではなく、表現したいものに一番近い形は何かを考えることが最も大切なのではないかと思います(自戒の念を込めて)。

これに加えて、注目せざるを得ないのは最後の「南無」です。「南無」は本来、仏に帰依を誓って救いを求めるときに唱える仏教用語ですが、現代においては「南無です」、「なーむー」などのネットスラングとして使われる言葉でもあります。ネットスラングとしては、何かがうまくいかなかったときに「どんまい」、「お気の毒様」というニュアンスで他者から言われたり、「やってしまった」、「どうか許して」という意味合いで独り言に使ったりと、本来の意味とは異なる使い方をされています。実は私も蚊を叩いて潰したときに、「南無(どうか許して、安らかに)」と蚊に対して呟くことがままあるので、掲句の「南無」は現代の口語として違和感なく受け入れられました。このような堅い仏教用語を、肩の力を抜いて句の中に溶け込ませることができる。この言葉のバランス感覚は、作者の佐藤智子さんならではのものですね。

楽しかった思い出は全部噓ではなかった。でも離れることになったのだから、もう忘れよう、南無。ふらっとひとりで立ち寄った蕎麦屋で、つるりと啜った新蕎麦。新蕎麦の爽やかな香りが、気持ちを切り替えてくれる。よし、今日から頑張ろう。

掲句の解釈はさまざまあると思いますが、私は何かとの別れを経験した人が、気持ち新たに再出発する様子を想像しました。たとえば友人と絶交したとか、恋人と別れたとか、転職したとか。もし自分が同じ状況になったとき、掲句を心のどこかに住まわせておけば、昔と自分の気持ちが変わってしまったことを責めなくともよいのだと思わせてくれるでしょう。そして、そのときが新蕎麦の季節ならば、きっと新蕎麦を食べに行くでしょう。作者の考えとは違うかもしれませんし、まったく違う解釈をされる方もいらっしゃると思います。ですが、私にとって掲句は、来るべきときのために携えているお守りのような一句なのです。

大丈夫だよ、南無!

佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』より)

斎藤よひら


【執筆者プロフィール】
斎藤よひら(さいとう・よひら)
1996年 岡山県にて生まれる。
2018年 大学四年次の俳句の授業をきっかけに作句を始める。
第15回鬼貫青春俳句大賞受賞。
2022年 「まるたけ」に参加。
2023年 第15回石田波郷新人賞角川『俳句』編集長賞受賞。
2024年 「青山俳句工場05」に参加。

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2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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