冬浪のつくりし岩の貌を踏む
寺山修司
ロック・スターが大きな身振りで「あれはロックだ/ロックじゃない」と言うように、また、ストリート・カルチャーに身を置く人が独自の倫理観に基づいて「あいつはリアルだ/フェイクだ」などと言うように、生活の諸要素を自らが所属するジャンルに当て嵌めていくような考え方がある。
個人的に俳句ほど生活態度と不可分の創作はないと思っているが、実生活の事を指して「これは俳句だ」、「俳句じゃないねえ」などと言うのはあまり聞いたことがない。
そこに大きな安堵を覚えつつ、心のどこかで、すこしだけ寂しいような感じもある。
ところで、私は演劇をやっている。
劇団の仲間に最近引越しをした男がいて、どうも、隣室になかなか大した人物が住んでいるらしい。
聞くところによれば、過去に「子供の夜泣きがうるさい」と怒ってマンションの隣の棟まで説教に行ったこともあるのだという。
引越しの男も例に漏れず、この愛すべき隣人に捕まって「このマンションで暮らしていくための素晴らしいルール」を約一時間、懇切丁寧に教示していただいたそうである。
解放された直後、彼は興奮気味に私に電話を寄越してあらましを述べたあと、
「いや、あれは凄まじい演劇でしたね」
と言った。
冬浪のつくりし岩の貌を踏む 寺山修司
①劇の『上演期間』は三ヶ月間とし、五十人の観客に限定して台詞を発送する。
②台詞の発送間隔は隔日のものと、一週間間隔のものとにわかれ、劇の進行によって決められる。
③この劇の出演者は、台詞の発送を受ける五十人の観客自信である。
④彼らは台詞の指示によって、相互的に出会ったり、関係をもったりする。
以上四つのルールは、昭和49年の寺山修司のエッセイに示されたもので、翌昭和五十年に彼が市街劇『ノック』のなかで行った「書簡演劇」の構想を端的にあらわしたものである。
市街劇『ノック』とは、街一つを舞台として、他に「密室演劇」や「戸別訪問演劇」など、十数種に及ぶ実験的な演劇を同時多発的に行うという試みであった。この頃からの寺山演劇は、いかにして観客を巻き込んで、その人生にどれだけの影響を与えられるかということに主眼を置いていたと見え、当時としてもかなり異質なものであっただろうと思われる。
一転、俳句はどうだろうか。
寺山の代表句と思われる句を四句、以下に抄出する。
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
便所より青空見えて啄木忌
わが夏帽どこまで転べども故郷
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
もっとも有名なものは四句目「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」であろう。「吾を統ぶ」の措辞が見事で、「五月」の清新な空気をとらえて「鷹」に託した佳句である。
他三句についても、さすがに言葉の扱いや一句の構成にすぐれていて、一読してはっきり上手い句と判ぜられると思う。
しかしながら、これら三句の場合はどうにも上手さが前に出すぎているような感じも受ける。
すなわち、ねらいは非常に面白いところがあるけれども、その「ねらい」が一句の中でまったく明示的になってしまって、句があくまで俳句的想像力の圏域にとどまったままになっているのである。
その傾向は、たとえば俳句の虚構性をめぐってしばしば俎上にあげられる「暗室より水の音する母の情事」などの句に一層明らかであろう。こと俳句において寺山は、なにか劇的なモチーフを一句に出現させようとしながら、その意図、仕掛けが捲れて見えてしまうということが少なくなかったように思われる。
放言がゆるされるのであれば、寺山俳句に見られるそうした失敗は、俳句という詩形そのものが寺山一流の演出を嫌ってみせたようで非常に興味深い。
さて、掲出句である。
こちらもやはり上手い。岩をあえて「貌」と表現しておいて、わざわざそれを「踏む」と言い切っているのである。ここに見られる不遜な振る舞いや、ささやかな悪意の表出ともいうべきものが、荒涼たる冬の景色を明瞭に描き出している。
とはいえここまで論じたことと照応させれば、やはり露悪趣味が明らかで、句が含蓄を持ちえず、名句と呼ぶには不足が目立つことは否めない。
また反対に、残す句すべてが名句でなければならないはずもないから、この句はこの句でよく出来ているという見方もできよう。
私はここで、そのいずれにも属さないもう一つの読みを提示して論を終えたい。
それは、この句はどこまでいっても露悪趣味を隠しえず、だからこそ卓抜の一句となった、という見方である。
すなわちこの句は、あえて「貌を踏む」と言ったことの意図が捲れ上がって、一連の露悪的な演出が白日のもとに晒される哀れな寒々しさをもってこそ、剥き出しの岩肌と、そこから広がる厳しい冬の海の景が一層鮮明に見えてくるのではなかろうか。あたかも、冬浪が岩を削って貌を作り出したごとくに、俳句という詩形が一句中の作為を厳しく跳ね除けて、作者の精神性のみを見事に炙り出してしまっているのである。
——などと言っては、寺山修司に肩入れをしすぎであろうか。
寺山演劇では、観客を積極的に巻き込むことで起こる予測不能の要素が重要であったように思われる。俳句においても、詩形の持つ力と批評の眼によって、一句の中に寺山自身も意図しえない深奥の世界が立ち現れていてほしいものである。
(加藤柊介)
【執筆者プロフィール】
加藤柊介(かとう・しゅうすけ)
1999年生まれ。汀俳句会所属。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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