薄氷に書いた名を消し書く純愛
高澤晶子
(『純愛』)
好きな人の名前というのは、どんなにありふれた名でも輝いて見えるものである。片想いの時には、その人の名をノートの隅や机の隅にこっそりと書く。文字の一つ一つをなぞると、さらに恋しさが募る。好きな人の名は人に知られてはいけない。だから、見えない場所か消えやすい場所に書く。自分の所有物ではない場所に刻む時には少しの興奮を覚える。例えば、橋の欄干とか砂浜とか。名前を書くと、恋が叶うような気がしてしまうのも不思議なことである。
古代より名には呪力があると考えられていた。武将が「名告(なのり)」をするのも、戦勝祈願をする社に名を刻むのも、名に力があると信じられていたからだ。名は人の魂を表すものであり、呪詛をする際には真名(本名)でなければならない。ゆえに真名は、親しい人にしか教えない。歴史資料に残る有名人、特に男性には複数の呼び名が残されている。生れたときにつけられる幼名、元服後に授かる諱(いみな)は、公の場では口に出すことを避け、通称名を用いる。任官後は官職名で呼ばれる。出世にしたがい官職名も変わる。出身地の名で呼びならわされることも多い。また、人生の転換期に名前を変えることもある。名を変えると運命が変わると信じられた。出家して、俗世の名を捨て戒名を名のる場合もある。女性もまた、真名は親族しか知らない。平安時代の女流作家である小野小町、清少納言、紫式部も本名ではなく、親族の姓や官職、出身地、属性から呼ばれた名である。
「名告りを上げる」という言葉は、武将の名告に由来しているが、もともと「名告り」とは、恋のことばであった。『万葉集』の巻頭歌は、雄略天皇の「こもよ みこもち ふくしもよ」の出だしで知られている。「きれいな籠を持ち、きれいな掘串を持ち、菜摘みをするお嬢さんよ」と問いかけ、「家はどこですか」「名前を告げなさい」と続く。春野で若菜を摘む乙女に求愛した歌である。
古代では、高貴な女性は行事の時以外は外出せず、顔も名も知られていなかった。外出する際は顔を隠す。都に遠く身分の低い女性達は、日焼けも気にせず顔を晒していたという。だけれども、名前だけは安易に告げなかった。
紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰(『万葉集』巻12)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか(『万葉集』巻12)
市で出逢った女性に男性は、「あなたは誰ですか」と問う。女性は「見知らぬ人に、母が呼んでいる名(真名)を教えるわけにはいきません」と答える。名を問うこと、告げることは求愛を意味する。歌ことばの「なのりそ」は、ホンダワラという海藻の古語で「莫告藻」と表記する。和歌では「名告りそ」(名を告げてはいけない)を導き出す枕詞となる。
名前を告げたら、恋愛関係になってしまうため、女性は相手の人柄が分かるまで名を教えなかった。名前で呼び合うような関係になると、相手を自分のもとに引き付けておくため、恋人の名を衣服に縫い込んだり、鏡の裏に刻んだりした。時には歌に詠み込むこともある。
現代でも、出逢った頃は苗字や役職名で呼ぶが親しくなると名前で呼び合う。呼び捨てで呼ばれるようになると嬉しいものである。結婚生活が長くなると「お前」とか「あんた」になる。そう考えると名は、恋をしている時の呪文なのだ。
薄氷に書いた名を消し書く純愛 高澤晶子
作者は、昭和26年東京生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。27歳の時に「花曜」に参加し、鈴木六林男に師事。六林男の逝去から3年を経た、平成19年、56歳の時に「花林花」を創刊。英語俳句の翻訳なども手掛ける。「花林花」には詩的な俳句を詠む同人が集う。句集に『復活』『純愛』『レクイエム』がある。
青い薔薇わたくし恋のペシミスト
泣きながら青き夕を濯ぎけり
恍惚の直後の手足雪降れり
無防備に横たわる彼晩夏光
春の家闇のどこかで「ママ、起きて」
どきりとするような恋の句や少し怖い句が魅力的だ。男女問わず、ファンの多い作家である。
〈薄氷〉の句は、恋するものが経験したことのあるようでないような隙間を突いた句である。薄氷(うすらひ)とは、春になって薄くなった氷のこと。氷に名を書いても消えてしまうものだ。ましてや春の薄い氷では。氷に名を刻むためには、先端の鋭い棒などで書かなくてはならない。消すためには、氷の表面を棒で削る。あるいは、指でなぞっている間に消えてしまったか。薄氷なら割れてしまうだろう。書いては消して、壊してはまた別の氷に書く。掲句も少々怖い句である。「純愛」とは、純粋な愛情であり、一途な感情でもある。肉体関係のない気持ちだけの通い合いも意味する。遠くから見ているだけで心が満たされる片想いも純愛と呼ばれる。消そうとする行為は、人に知られてはいけない恋を想像させる。まだ秘密の恋、胸の奥に閉じ込めている恋、友人にも相談できない恋など。でも、知って欲しい、知られたい、自分のものだと叫びたい。それが、薄氷に刻んでは消す動作をさせたのだ。
私が二十七歳の頃、長野県出身のマスミさんの紹介で湖の畔のペンションに泊まったことがある。そのペンションは、マスミさんの幼馴染が経営しており、少々安くしてもらえた。当のマスミさんは仕事の都合で来られなかったのだが、「湖の近くにある白樺の木に、好きだった人の名前を刻んだの。もう消えちゃったかな。確認してきて」と、私に課題を出した。旅の仲間がまだ眠っている時刻に起きて、朝靄の湖を歩いた。白樺の木を一つ一つ確認した。船着き場近くの木の樹皮が剥がれていて、露わとなった茶色い木肌に何かが書かれている。指でなぞると、書いた文字を消したと思われる線に気付いた。しばらく歩くとまた樹皮が剥がれた白樺を見つけた。木肌には、はっきりと「シュンイチ」と彫られていた。同じ木の枝の影になる部分には、小さな文字で「舜一」と彫られている。風雨に晒された文字は黒ずんでいた。カタカナの方は、彫刻刀の角のようなもので彫られているのだが、漢字の方は、コンパスの芯で書いたかのように細い。本当に文字が残っていたことが、嬉しくもあり、不思議でもあった。「舜一」は、マスミさんの幼馴染であり、ペンションのオーナーの名だ。知ってはいけないことを知ってしまった気になった。
後日、マスミさんに確認したところ、舜一さんは父親の遠縁にあたる方で、初恋の人だったという。高校時代に告白しようとしたが、異母兄妹の噂があったため断念した。異母兄妹ではないことが判明した時には、お互いに婚約者がいたため、恋に発展することはなかったとのこと。船着き場近くの木の文字は、中学生の頃に書いて、書いた途端に恥ずかしくなって削ったもの。カタカナの文字は、高校時代に告白をする代わりに刻んだもの。舜一さんに気付いて欲しかったのだ。漢字の方は、結婚する前の帰省の際に書いたもので、その辺に落ちていた釘で彫ったらしい。何とも恐ろしい執念である。確かにオーナーは素敵な男性で、「舜一」という名も神聖なものに感じた。
分からないように、でも気付かれるように刻むのが楽しい。薄氷となると消えるのが前提なので、絶対に気付かれてはいけない想いなのだろう。だけれども、わざわざ消すのには理由がある。その薄氷は、相手が目にする通り道にあるか、人目に付く場所にあったのではないか。恋する心に気付いて欲しいけれども、知られたくないジレンマを名付けるとしたら「純愛」になるのだ。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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