極月の空青々と追ふものなし
金田咲子
2020年最後の水曜ハイクノミカタは、気持ちよい青空を「全身」より。
〈極月〉とは一年が極まる月、十二月のこと。〈極月の空青々と〉の空の青さが、その〈極月〉の〈極〉の字により「極」められ、一層鮮やかに見えてくるから不思議だ。
〈追ふものなし〉からは、この句の伝える風景がその青々とした冬空のみとわかる。雲も、木の葉も、鳥も、飛行機も、何もない青空。
何もない青空ならば、例えば「極月の空青々と『何もなし』」という下五も可能かもしれないが、この例に続けて掲句を口に出して読んでみると、いや、読むまでもなく掲句の力強さがわかるだろう。
そう、なんといっても、この句の心臓はこの下五の〈追ふものなし〉。〈極月の空青々と〉までの外界の世界が、〈追ふものなし〉で、この空を見ている動作の主の心の世界に転じ、その字余りの勢いも手伝って、読み手の中心に迫ってくる。
目で追うものがない、ということ以上を予感させるこの〈追ふものなし〉の〈追ふ〉の主人公は心。
では「心が追うものがない」とはどういうことか。
人の心、この愛すべき驚くべき仕組みは、人生そのものといってもいい。自分自身や家族ほか大切な存在の幸せを願って、常に何かを探しては追いかけてくれる。
心は休みない。したらよかったとこと、しなければよかったこと、これからしなければならないこと等々。今目の前にあることにかかわらず、ほとんど自動的に、過去に未来に探し追いかけて忙しい。心ここに在らず、とはよくいったもの。これが、初期設定における心の傾向、心の癖なのだ。
もしそうならば、たとえ今、青空を目の前にしていたとしても、この、何かを「探し追い求める」という心の癖によって、心はその働き自体と、見つけた何かに気を取られ、青空の美しさに気付けないこともあるだろう。
それは心が疲れているサイン。
そんな時は目を瞑って。
息を吸って
息を吐いて
吸って
吐いて
吸って
吐いて
。
。
。
。
。
。
。
。
そして、ゆっくり目を開ける。
〈追ふものなし〉には、みずからを束縛する心の癖から解放された心の状態を、筆者は見た。
それは開放感。それは自由。それは安らぎ。心に空間が生まれ、たちまち心は目の前の青空の美しさに満たされる。体もリラックスしていることに気付くだろう。
極月の空青々と追ふものなし
その心は穏やかで、ないものを追いかけるかわりに、あるものに幸せを見つける。今この瞬間の目の前の存在のありのままを受け入れ愛おしむ心のありようだ。
〈極月〉という一年の最後の月、なにかと慌ただしく、記憶も嵩張る月であるからこそ、〈追ふものなし〉と言い切る心の透明さが際立つ。未曾有の感染症が広まった2020年の〈極月〉として読み返せばなおのこと。
極月の空青々と追ふものなし
今この時、皆さんとご一緒に深呼吸して心を静め、美しい青空を、そして離れていても、今、共に生きてあることの幸せを、心に満たしていたい。
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毎週水曜日、皆さんと、ハイクノミカタでお会いできて光栄でした。愛する俳句たちとの対話にお付き合いいただきありがとうございました。来年もここでお会いするのを楽しみに。
どうぞ良いお年をお迎えください。
(月野ぽぽな)
【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino