星空は無音の瀑布鯨飛ぶ 神野紗希【季語=鯨(冬)】


星空は無音の瀑布飛ぶ
神野紗希

「瀑布」は垂直的な水の落下をあらわす言葉。李白の「望廬山瀑布」(廬山の瀑布を望む)で知られる「廬山の滝」は、江西省九江市に位置する国立公園だが(1996年に世界遺産に登録された)、「白い布」に見立てられた「瀑布」は、やはり巨大な滝を思わせる。そのうえ、漢文脈に属する言葉であり、ましてや日本語における日常語とはほど遠い。というか、「瀑布」などという言葉をわたしが知ったのは、俳句をはじめてからのことだし、それもしばらくしてからのことだった。夏の季語ではあるが、それほど使われる言葉、ではない。

そんなわけで、星空を滝に見立てる掲句が提示するのは、まず非日常的な──「瀑布」に喩えたくなるくらい真っ白に星がきらめく──夜空である。天の川を90度ずらしたような、日常から遠く離れた海上の星空。そのような体験はそうできるものではなく、おのずと情景は想像的、幻想的なものとなる。「鯨飛ぶ」という描写もそう。鯨は空を飛ばない。生物のなかでも最も「眠らない」動物であり(巨大な体躯ゆえに眠りは致命傷となるからだろう)、そもそも肺呼吸なので、完全に眠ってしまうと窒息してしまう。

だが、言葉の上で「鯨飛ぶ」と書かれると、まるで夜の海に鯨が飛び上がり、「瀑布」のような水しぶきを立てる──そんなイメージも交錯する。幻想の上に幻想を重ねる作り方。そのため「鯨」は冬の季語ではあるのだが、限りなく無季に近い。冬らしいかと言われると微妙なところで、むしろ「飛ぶ」というダイナミックな動作からは、夏の夜を思わせなくもない。

大瀧詠一の初期作に「空飛ぶくじら」という短い曲がある。1972年の曲。
《空飛ぶくじらが/ぼくを見ながら灰色の街の空を/横切っていくんです》
鯨という圧倒的に巨大な生物は、人間にとって特別なものだ。とくに四方を海に囲まれた島国の日本は、大昔からクジラと関わってきたが、こんなかたちでポピュラーソングや絵本などでもよく登場する存在だ。ちなみに「空飛ぶくじら」のB面は「五月雨」という曲で、松尾芭蕉の〈五月雨をあつめて早し最上川〉の句から取られたものである。

《広い宇宙の真ん中でまるで小さな石ころみたいよ wow/歩き疲れたあたしを待ってる物語りへ急ごう》
こちらはJUDY AND MARYの「くじら12号」という1997年の曲。
バブル崩壊後もまだまだCDシングルが爆売れしていた時代、「歩き疲れたあたし」を日常の外部に連れ出してくれるのは「物語り」。ちなみにこの曲、タイトルとは裏腹に「ドルフィンキックにしびれてみたいな」で締めくくられる(当時中学生だったわたしは鈍感だったので、イルカじゃん!とはあんまり思っていなかったが)。

しかし鯨が空を飛ぶというと、やはり小学校の国語の教科書に出てくる「くじらぐも」を思い出さざるをえない。1974年から教科書に掲載され続けている、空に浮かぶ「くじらぐも」と子どもたちの交流を描いた童話である。童話作家・中川李枝子の作だが、大瀧詠一の「空飛ぶくじら」と制作年が近いことが興味を惹く。とかく「鯨」は、人間や社会の「外部」的な存在として描かれる。自然環境の限りなく周縁に位置していながら、あまりに存在が大きく、たびたび中心化されるのだ。

掲句に話を戻すなら、この句における鯨は、まるで無邪気な子供のような存在に見える。それが現実には、親が寝静まったあとに、こっそりと部屋を抜け出し、コンビニにおでんを買いに行く程度のものであったとしても、社会のなかで生きることは、人の評価や形式を受け入れ、従うことである以上、その抑圧された心を解放したくなることがある、そんなささやかな抵抗を感じる。

  潜りゆく鯨最終電車めく
  踏切で鯨と待っている夜空
  待春の星空鯨とぶ飛沫
  鯨また潜る星無きうなそこへ
  海原が どくん 鯨を どくん 闇
  月ぽつん 鯨に逢いたくて鯨
  あたたかや鯨の鰭に五指の骨
  海面をほしぞらとして鯨の子
  ひとつぶの銀河すなわち鯨の眼

この作者には「鯨」の句がけっこう多い。それも「星」と絡んだ句もそこそこある。やはり「鯨」は愛される対象として、巨大な対象として、人間の〈外部〉にいる神的な対象として、描かれている。星空と鯨──なんだかラッセンのポスターみたいであるが──この〈星空は無音の瀑布鯨飛ぶ〉はただ綺麗だよね、で済まされる話ではなく、「非現実」ないしは「超現実」的な作りであるがゆえに、「鯨」の表象を通じて〈神的なるもの〉を描こうとする「精神」のありようを考えたくなってしまう句のひとつ、だ。

(堀切克洋)


関連記事