星空は無音の瀑布鯨飛ぶ 神野紗希【季語=鯨(冬)】

《広い宇宙の真ん中でまるで小さな石ころみたいよ wow/歩き疲れたあたしを待ってる物語りへ急ごう》
こちらは、JUDY AND MARYの「くじら12号」という1997年の曲だ。
バブル崩壊後の閉塞感が漂う時代、「歩き疲れたあたし」を日常の外部──「物語り」──へと連れ出すアイコンとしての鯨。タイトルに反して「ドルフィンキック」で締められるというのは、当時はそう不思議に思わなかったけれど、あらためて歌詞を見てみると、とてもへんだ。でもそれを変と思わせない弾けるようなポップさが、当時のジュディマリにはあった。

しかし「空飛ぶ鯨」といえば、小学校の国語の教科書に出てくる「くじらぐも」に触れないわけにはいかない。1974年から教科書に掲載され続けている、空に浮かぶ「くじらぐも」と子どもたちの交流を描いた童話であり、童話作家・中川李枝子の作。大瀧詠一の「空飛ぶくじら」と制作年が近いことが興味を惹くけれど、とかく「鯨」は、人間や社会の「外部」的な存在として描てきた。

「鯨」という生き物は、常に自然環境の周縁に位置しながら、その圧倒的な質量ゆえに人間を「自意識」へと連れ戻してしまう。言い換えれば、「空飛ぶ鯨」は、神的なるものの隠喩でありながら、とてもポップな存在でもある。作者の作歴において、「鯨」と「星」が交差する句群は決して少なくない。

  潜りゆく鯨最終電車めく
  踏切で鯨と待っている夜空
  待春の星空鯨とぶ飛沫
  鯨また潜る星無きうなそこへ
  海原が どくん 鯨を どくん 闇
  月ぽつん 鯨に逢いたくて鯨
  あたたかや鯨の鰭に五指の骨
  海面をほしぞらとして鯨の子
  ひとつぶの銀河すなわち鯨の眼

これらの作品群に通底しているのは、愛すべき巨大な他者としての、あるいは人間の認識の外部にそびえる神的な存在としての鯨の姿である。

星空と鯨──一歩間違えれば通俗的なファンタジーの図像に堕ちかねない危うさをはらみながらも(なんだかラッセンのポスターみたいだ)、〈星空は無音の瀑布鯨飛ぶ〉という一句が批評的な強度を保ち得ているのは、その断言の小気味よさ、幻想的な世界を写実的に見せてくれるからだろう。また同時に、それを眼差している(あるいは想像している)ロマンティックでパセティックな主体の存在も透けて見えてくる。

(堀切克洋)


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