
茄子ぱちんとはいえ降りませんように
榎本佳歩
窓から、電車がみえる診察室のユニットに座らされ、好きな街が好きな夏の夕方の空気につつまれているのをゆらゆらとみました。後ろで、何かを削る音が聞こえる…………。
診察が終わって、夕方も深まったのにまだあかるいから、べつに、いつだって来られる街のはずなのに、後ろ髪ひかれる思いで各駅電車に乗ってしまう。かつて何年もこの路線の定期券を持っていたはずなのに、いまはもう持っておらず、ふらふら無駄に降りてみることはできないのだなあと車窓にたゆたう藻だらけの御濠を眺めて思うなどして、ただただ平らに、なんだか急に、人生って(突然の特大主語)こういうことなんだ、としぼんでいくような、のみ込むような気持ちで乗り換えをしたのでした。戻ることのできない、きょう☆。.:*・゜
☆。.:*・゜
掲句は『noi』vol.5より。
決め切る、ことのつみ重ね。明日はここ行こうとか、やはりお家にひきこもろうとか、昼はうどんをたべようとかそういう、ちいさなことからですね、明日から遠くの街で働くのだとか、誰かと、あるいは一人でこの暮らしをやっていくのだとか、どのぐらいの大きさとは言い表せないほどおおきなこともですね。茄子のへたを枝から切るのも、「収穫」と言ってしまえば、まあ、そうなのだけれど、でもそれもまた決め切ったゆえの行動で、ぱちん、の音が鳴るその前には戻れない、茄子も、自分も。
いずれいただくために育て、そのへたを切り離した茄子だけれど、みずからが握るはさみで出した、驚くほど乾いていて、それでいて妙に響き残るその音に、茄子という自分と別個の存在にとっての戻れなさも作り出してしまったことにはっとする。あ、と思って、その音が契機になって、いろいろな予感がそこに被さりそうになる。かんかん照りだった空に暗雲。
決断を行動に移したときより前、一秒だって戻ることはできず、戻れるともはなから思わない。たとえその決断の先にどんなことがあっても、歩み?を、進めて?ゆく、覚、悟……そんなことはもちろん承知の上だけれど、だとしても、もしも、とはいえ!そんなときにいらない黒いもの、降りそそいでくれてしまったら…………?
手のひらに、つややかでアメジストみたいに深い紫の茄子がある。綺麗な野菜。ちゃんと茄子を味わいたい、綺麗だと思えていたい、決断のその先、何処に居たとしてもです。作物もよろこばないほどの大雨、苦い言葉、灰色の報せ、とめどなく降るもの、こないでね。ここに、こころに、降らないように、はさみを置いて、すこしささやかに、秘密に祈る時間を持っておく。
☆。.:*・゜
ぱちん、という音、収穫のことをかきましたが、いろいろありますね。
雨粒が何かを弾いたときの音。揚げもののときの油が跳ねる音。うんうん、茄子は素揚げも天ぷらもおいしいですものね。あとは、マジックを仕掛けたり、魔法をかけたりするときの音の比喩としても。おそらく、指をぱちん!とする仕草に由来している気もいたしますが。
まさに魔法めいた色、この夏でいちばんうつくしい色味を放つ茄子を捧げると、よく魔法がかかるなんて、聞いたこともないけれど、本当にこれで、ぱちん!とうまく、かかったのかなあ……。
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幼い頃、父方の祖父母の家に行ったとき、車でがんがん揺れてたどり着いた山道?の先の茄子畑で、茄子をそれこそ、ぱちんと収穫したことがあります。不器用な上、農作業に慣れないわたしは最初、へたのところをはさみでぐにっとさせてしまい、痛いことをしてしまったなあと、いまになって思います。
掲句の作者は、榎本佳歩さん。『noi』をはじめ、大学俳句会・短歌会に所属され、作品をかかれています。
榎本さんとは俳句甲子園公式作品集編集部の活動ではじめましてをして、わたしがひそひそと俳句を拝読していたのでした。
あなたの夜のすべてが沈丁花かなしい 榎本佳歩
(こちらhttps://note.com/ata_huuta/n/n1141d30a3842 より)
わーん。どれだけいい街をみつけても、理想郷みたいにぜんぶが善であまいだけではないことを知っていて、そのなかでとびきり切ない、しかしわすれがたい瞬間ややわらかい気持ちをみつけられることがある。目は逸らせないけれど、みつけたものは大事にとっておく。そういうことをこぼさず俳句にかけたとき、こんな感じになるのだろうなあと思います。いつでも、いつも勝手ながら。
泡つついてこがらしのゆめも見てあげる 榎本佳歩
(『都留文俳句』第一号/連作「屋根」より)
いつかこわれてしまうもの、つついて、まき散らすゆめをね…………この目で。では、みていただくのをまかせました、と言いたくなってしまいます。
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オフィスの冷房に凍えたり、利きのわるい家の冷房を励ましたりするぐらいの苦労のほかは、茄子をはじめ、夏野菜、夏麺、夏パフェ等々……めしあがるなどして、なだらかな時間で夏が過ぎてくれますように、といちいちみんなで念じなくてもいい世界に、なったらね、よいですね☆。.:*・゜急に壮大☆。.:*・゜と、思いきや、そんなに壮大ではないことなのが、がっくりさせますね。
ああ。むずかしや、むずかしや、むずかしいぞの。やれたのしいぞの(舌長姥(泉鏡花『天守物語』)執筆おばあさんver?)(わからない例えするものじゃないよ本当に)と毎度毎度なっておりますけれども、執筆おばあさんになれたらどんなにいいものだろう。長いわよーっ。道のりよーっ。なりたいのか、なれるのかはまだわかりませぬね。
六月もわずかですが、大変に暑い日がまだまだ少ないように感じます!涼しい。ありがたい!これから来るのか、冷夏であってくれるのか……。着たい夏服、何度も着ましょうね。戻れない夏をかかえてあたらしい夏にゆく、すべての方へ☆。.:*・゜
(おおにしなお)
【執筆者プロフィール】
おおにしなお
平成十年、東京都生まれ。俳句をかきます。
橋本直さんが〈のこるたなごころ白桃一つ置く〉(小川双々子)について書かれている書はこちら。
