秋櫻子の足あと
【第7回】(全12回)
谷岡健彦
(「銀漢」同人)
このコロナ禍では気軽に足を運べないが、球場で夜風に吹かれながら飲むビールがおいしい季節になってきた。子どものころ、わたしは何度か父に球場まで野球観戦に連れて行ってもらったことがある。だが、ナイターだったことは一度もない。理由は簡単で、家の近くにあった藤井寺球場には当時ナイター設備がなかったからだ。住宅地に隣接しているため、球場の照明や歓声が周辺住民の迷惑とならないよう、ナイターは開催しない取り決めになっていたのである。日暮れが近づくとボールが見えにくくなり、わたしは、プロ野球では珍しい日没コールドゲームとなった試合を見た記憶がある。
藤井寺球場を本拠地としていたのは近鉄バファローズだったから、おのずと近鉄ファンになった。大げさに聞こえるかもしれないが、少年時代に近鉄を応援した経験が、わたしの性格の形成に少なからず影響をおよぼしたのではないかと考えている。近鉄はけっして強いチームではなかったから、みじめな敗戦を喫することが多かった。序盤に大量点を奪っておきながら、終盤に大逆転を食らうという試合展開も珍しくはない。そのせいか、野球にかぎらず、事態があまりに順調に進行していると、逆に不安を感じる性分になってしまったのである。イングランドのサッカーチーム、トッテナム・ホットスパーを長く応援してきたジョン・クレイス(John Crace)は、『眩暈』(Vertigo)という本のなかで、こうした心情にうまい表現を与えてくれている。「高みに上れば上るほど、落ちる距離も大きくなる」。
前置きが長くなってしまった。秋櫻子の話に入ろう。秋櫻子の野球好きはひろく知られている。早大のグラウンドのそばの独協中学に通っているころから興味を持ち始め、一高入学後は野球部に所属した。三塁手や捕手を務めていたというから、なかなかの腕前だったのだろう。1963年8月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」(全集第十九巻所収)のなかで、秋櫻子は一高野球部の思い出を詳述している。当時、どういうわけか部内には靴の使用を禁じる規則があって、部員はみな足袋を履いて練習をしていたそうだ。1月や2月の極寒期になると、足に凍傷ができたというから恐れ入る。
野球を俳句に詠み始めたのも早く、1931年刊行の『秋櫻子句集』を繙くと、<サイレンの鳴るとき秋日雲を破る>で始まる「神宮球場風景」という題の連作五句が目にとまる。これらの句が詠まれたのは、たんに秋櫻子の野球に対する関心が強かったからだけではなく、設立したばかりの「馬酔木」の主宰として、旧来の花鳥諷詠にとどまらぬ新しい俳句の題材の開拓に意欲を見せていたからでもあったろう。1930年代、秋櫻子は野球のほかにも<ラガー見よ戦敗れなほ嘆かず>、<8コース夜涼の波の沸きはしる>といった具合にスポーツを主題とした句を数多く詠んでいる。ただ、この時期の作に関しては、<ラグビーのジャケツちぎれて闘へる>や<ピストルがプールの硬き面にひびき>などの山口誓子の句の方が、対象となる競技を的確に捉えているようだ。
野球を句材とした秋櫻子の佳吟は、むしろ還暦以降の円熟期の句集に目につく。ことにナイターに関しては、「景としても詠めるが、やはり試合の経過に伴う観者の心理の変化を詠むのが面白い」というのが秋櫻子の持論だったから、<ナイターのいみじき奇蹟現じけり>や<たぬき寝の負ナイターをきけるらし>というように、とぼけた味わいのある人事句が多い。だが、わたしは、秋櫻子らしく大きな景色を描き出している次の一句にいちばん心を惹かれる。1961年に出版された第十五句集『旅愁』所収の句だ。
ナイターの光芒大河へだてけり
掲句を一読して、真っ先にわたしの脳裏に浮かんだのは、かつて大毎オリオンズが本拠地としていた南千住の東京スタジアムである。あまり高い建築物のない下町の住宅街に位置していたために、ナイター開催時には遠くからでも煌々と輝く照明塔が見え、光の球場とも呼ばれていたスタジアムだ。
球場から少し東へ歩くと日光街道に出るから、北へと折れて千住大橋を渡ると『奥の細道』の矢立初めの地である。ここからなら、ちょうど大河をへだててナイターの光芒が見えたはずで、俳句の古典と現代的季語がみごとに融合した眺望を秋櫻子は目にしていたのであろう……。
と、ここまで順調に筆を進めてきて、この推論には致命的な瑕疵があることに、はたと気づいた。東京スタジアムが開場したのは1962年なのである。いくら「文芸上の真」を標榜していた秋櫻子にしても、まだ着工もされてもいない球場の試合風景を句に詠めたはずがない。どうやら、地に足のつかぬ考えが先走りしすぎたようだ。たしかに「高みに上れば上るほど、落ちる距離も大きくなる」。今回は秋櫻子の足あとを、わたしは見失ってしまった。
それはさておき、秋櫻子は夏のナイターだけでなく、他の季節の野球の試合も俳句に詠んでいる。なかには<日本シリーズテレビに見つつ波の音>のように「日本シリーズ」を秋の季語として用いた作例もある(つまり、ふつうに言えば無季の句だ)。秋櫻子は西鉄ライオンズのファンだったそうだから、巨人相手に3連敗した後、4連勝した1958年はさぞ大喜びしたことだろう。まさに「いみじき奇蹟現じけり」である。
一方、わたしが応援していた近鉄バファローズは逆に、1989年、3連勝の後、4連敗して巨人に屈した。もう東京に出てきていたわたしは、テレビで藤井寺球場での第7戦を観たのだが、試合開始前から敗北を従容と受け入れていた気がする。
【執筆者プロフィール】
谷岡健彦(たにおか・たけひこ)
1965年生まれ。「銀漢」同人。句集に『若書き』(2014年、本阿弥書店)、著書に『現代イギリス演劇断章』(2014年、カモミール社)がある。
【「秋櫻子の足あと」のバックナンバー】
>>【第6回】もつれあひ影を一つに梅雨の蝶
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