神保町に銀漢亭があったころ【第34回】鈴木琢磨

神保町の流れ星

鈴木琢磨(毎日新聞記者)

竹橋にある新聞社からすぐ、しかも赤ちょうちんコラムを書いているくせに開店してしばらくは「銀漢亭」を知らなかった。教えてもらったのは東京の坂道、路地を知り尽くすエッセイストの坂崎重盛さんだ。ついしんどくて椅子を持ち出し腰かけようとしたら、しかられた。「こういうところは立って飲まなくちゃ。さっとね」

さすが粋な東京人である。が、万事、だらしない私は立ち飲みができない。いつもカウンターの前で座っていた。全共闘世代にして心情右翼、昭和歌謡を愛する伊藤伊那男というマスターをちょっと面白い人だな、と思った。いつしか神保町の俳句酒場としておおいににぎわい、マスターも俳人として脚光をあびていったが、私は大いに不満であった。

飲べえには旨い酒と旨い肴がないといけない。銀漢亭は祇園で遊んだ夜の数がしのばれる伊那男シェフのつまみが楽しみだった。スパイシーな鯨ステーキにうなり、どろっとした濃いめの粕汁にほっこりした。われら関西人の舌を喜ばせるツボを心得ていた。

それがである。ちりめん山椒こそ常備されていたものの、鯨ステーキも粕汁もすっかり姿を見なくなった。うらんだ。恥ずかしながら閉店も知らなかった。

コロナ禍で飲み歩きがかなわず、散歩がてら自宅そばの練馬区立石神井図書館に立ち寄り、雑誌コーナーに目をやると、俳誌「銀漢」が並んでいる。へえ、珍しいなと手にとり、日録を開くと、銀漢亭をたたむと出ていた。

驚いたが、かつて私のインタビューに本人が答えていた。「70歳までは続けますよ。それからは奥の細道みたいな旅をしたいですね」

「銀漢」に4人の常連が愛惜の文をつづっていた。顔が浮かぶのは太田うさぎさんだけだった。<何かと理由をつけてはチリンチリンと鳴る扉を押したものだ>。読んで私の頭のなかにもチリンチリンが鳴った。天井に天の川に見たてた豆電球がしつらえてあったが、そもそも銀漢亭は流れ星だったのだろう。東京にあった幻の京都――。


【執筆者プロフィール】
鈴木琢磨(すずき・たくま)
毎日新聞記者。1959年、大津市生まれ。芭蕉翁の眠る義仲寺そばの高校から大阪外国語大朝鮮語学科卒。韓国歌謡曲にひたるのが至福。著書に『今夜も赤ちょうちん』(ちくま文庫)などいろいろ。



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