螢とび疑ひぶかき親の箸 飯島晴子【季語=螢(夏)】


螢とび疑ひぶかき親の箸)

飯島晴子

 初めて晴子の句集を読んだ時、この一句が強烈に頭に残った。この句の「親」は、ちょっと他にはいない親である。忘れっぽく、怒りっぽくなった親。全てのことに懐疑的な親。箸をかつかつ鳴らしながら迷わせる親。それならば自然な老いなのである。しかし、この親が蛍の中に配置された瞬間、一気に神秘的な存在になっていくのである。二度童子ではないが、〈幼子の手の腥き春の空〉を取り上げた時にも述べた霊的なものを帯び始める。その神秘は複雑で、晴子が「螢」というエッセイで述べているような、恋、王朝、田園風景のイメージが混ざり合って読者のうちに立ち上がる。そして、細い木の箸は暗闇の中に消えては現れるのである(晴子作品における「箸」についてはまた別に述べたいと思う)。例えば貴船を思い、例えば秩父を思う。京都に生まれ、俳句を作り始める頃にはすっかり関東の人間となっている晴子ならではの味わいではないか。

 ところで、掲句の他にも『蕨手』には「親」というやや素っ気ない語が頻出する。〈葛の花こぼれやすくて親匿され〉〈夏山に親のほとりの黒い傘〉〈親の死を忘るゝ細き蛇ばかり〉〈白木槿親の眼の奥抜け落ちる〉〈枯葱に未明の親は打たれてをり〉〈ひとしれず親の山より初氷〉〈親の目に海鼠あふれてゐたりけり〉など。これらは自身の親なのであろうが、〈山百合の山系をゆくひとの親〉〈榛垂れて親たちすこしづつうごく〉〈親の列白い茸に立到り〉などは他人の親を含んでいる。「父」とか「母」に比べて叙情を伴わない点で晴子が好んで使ったということは言えそうである。そして、「親」と言われると、若い父母というよりかは、年取ってなんとなく一括りになった父母を思うのである。しかしながら、「親」という言葉から立ち上がる世界については、一句一句について別個に検討が必要だとは思う。掲句に関して言うならば、「親」とすることで両親の若かりしころまでもが見えてくる。野趣のある一句に見えて、実は恋のイメージが潜むことに不意打ちを喰らうのである。

 蛍はもはや実物よりも文学的な情趣の方が優ってしまっているが、私にとって蛍は案外親しみぶかい。「言葉蛍」とは全く別の「実物蛍」のイメージを、心の中に三つ持っている。一つ目は、幼少時、ニューヨークに住んでいた頃の蛍である。ニューヨークと言っても郊外の自然豊かな土地に住んでおり、家の裏には蛍がたくさん出た。今から思えばぼってりした大きな蛍がぶんぶん飛ぶ景色には風情も何もないが、記憶の中ではこれが最初の蛍であり、当時は全く違和感なく楽しんでいたのだろう。二つ目は、七年ほど前に行方克巳先生に紹介していただいた、志賀高原の蛍。普通よりは遅い七月末頃、高原の清流のあたりを蛍が乱舞するのである。冷涼な気候でありながら、温かく栄養に満ちた温泉が湧くというところがポイントのようだ。本当に見事であり、軽井沢経由で志賀高原まで車を飛ばすのが、今でも毎年七月の楽しみである。三つ目の蛍は、昨年赴任して来た足利は名草の蛍で、これはいわゆる日本の田園風景の中の蛍と言っていい。草がむんむん匂い、鹿が遠く鳴く川縁で、小さくかすかな光を見るのである。ニューヨークや志賀高原の蛍ほどの迫力はないが、最も素朴で、その意味で霊的な蛍である。

 この足利の地で先週、夏至の日の朝四時、既に明るい中に長男が生まれた。私も親になったのである。

小山玄紀


【執筆者プロフィール】
小山玄紀(こやま・げんき)
平成九年大阪生。櫂未知子・佐藤郁良に師事、「群青」同人。第六回星野立子新人賞、第六回俳句四季新人賞。句集に『ぼうぶら』。俳人協会会員


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