よく晴れた五月のある午後、
掃除機をかけ終わる頃にインターホンが鳴った。
小さなモニターを見ると、そこにはあまり見かけない青年が立っていた。
きっちりとした白い長袖のシャツを着ている。奇妙なことに、手袋をはめていた。
玄関を開けると、青年は引っ越しの挨拶をしにきたのだ、と述べた。
黒い大きな瞳、圧倒的に長いまつ毛、少し長い耳を持つその青年は、
「これ、ほんの気持ちなのですが」
と言いながら手みやげの「東京ばな奈」を手渡してくれた。
東京に住んでいると、「東京ばな奈」は主要な駅でしか見たことしかない。
一度は食べてみたい、と思っていたので、私は遠慮なく受け取った。
しかし東京の人間に「東京ばな奈」を持ってくるのは、どういう感覚なのだろうか。
私のそんな思いが伝わったのか、
青年は言い訳でもするかのように早口で付け加えた。
「すみません。僕はまだ人間の社会に慣れてなくて」
人間の社会…
とにかく誰かに聞いてもらいたかったのだろう、
それから彼は堰を切ったように信じ難い話を始めた。
彼は、アフリカから来たという。
日本に来る前は、しまうまとしてサバンナで暮らしていたそうだ。
しまうま?
「しまうまの世界には、ひじょうに厳格なヒエラルキーが存在します。
群れを支配するのは一頭のオスだけ。そのオスが群れの全てのメスとその子供を所有しているのです。」
彼は怒りに震えていた。
「すると、その他のオスはどうしているのかな?」
私は迂闊な質問をしてしまった。
「まさにそこが問題なんです。僕たちのようなボスにはなれなかったしまうまは、
あぶれたオス同士で暮らすか、群れを離れるしかないんです。
ある意味僕たちはおとりとも言えます。ライオンに狙われやすいのは、
僕たちのような行き場のないしまうまなのです。」
どうにかしてこの状態を抜け出したいと願った彼は、
ある日、動物の言葉を話すことのできる呪術師と出会ったという。
そして人間に変わる呪術をかけてもらったのだそうだ。
しかし呪術師は急いで処置をしたので、ところどころ不完全な部分があるらしい。
例えば彼の手はまだひづめのまま。手袋はそれを隠すためのものだった。
「人間になった僕はサバンナから都会へ出て、あらゆる仕事をしました。
その時街で流れていたのが日本の『涙そうそう』という曲でした。
その曲を聞いて、僕は日本に来ることを決めたのです。」
彼は遠い目をして答えた。
おそらくはつらかった当時のことを回想していたのだろう。
あるいはあぶれたオスのしまうまたちを思い出していたのかもしれない。
しばらくの沈黙の後、彼は続けた。
「僕だって愛する人と出会って、穏やかな暮らしをしてみたい、
だからこそしまうまをやめることにしたのです。」
彼の大きな瞳にはうっすらと涙が光っていた。
しかし、どうやって女性と知り合うのだろう?
そんな私の疑問を読んだのだろうか。彼は少しうつむいて答えた。
「マッチングアプリに期待しています。」
私はなにげなく彼の手袋を見た。
それに気づいた彼は、突然激しく怒り出した。
鼻息を鳴らし、歯茎を剥き出して。
「あなたは僕のひづめではスマホを操作できない、と思っているんですね。
冗談じゃない、僕はなんだってできる。しまうまから人間になった苦労を思えば、
できないことなんか何もないんだ。」
激昂した彼は振り向き、元しまうまらしく大きな跳躍をして去っていった。
私に悪意はなく、なぜあれほどまでに彼が急に怒り出したのかはわからなかった。
一方的に取り残された私は部屋に戻って、
「しまうま」の性質について検索してみた。
「気性は非常に荒く、人間に慣れることはない」と書かれている。
この日本で、彼はうまくやっていけるだろうか。愛する人と出会えるだろうか。
私は窓の空を見上げた。どこまでも続く初夏の青い空は、
きっとアフリカのサバンナにもつながっているのだろう。
しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る
富安風生
※気になる一句から膨らむストーリーを書いていきます。作者の人生、作句の背景とは、全く関係がありません。その点ご理解、ご容赦いただけると幸いです。
(小助川駒介)
【執筆者プロフィール】
小助川駒介(こすけがわ・こますけ)
『玉藻』同人。第三回星野立子賞受賞。
星野椿先生主催の超結社句会「二階堂句会」の司会進行係。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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