涼新た昨日の傘を返しにゆく　津川絵理子【季語＝涼新た（秋）】

2025.08.20
ハイクノミカタマンスリーゲスト

涼新た昨日の傘を返しにゆく

津川絵理子

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最近、物の貸し借りをしなくなったなと思う。昔は、CDを借りたり、貸したりした。今みたいにサブスクリプションで音楽を聴くようになる、ずっと前のことだ。借りたCDは、なるべく丁寧に扱って壊したりしないように気を付けた。自分のものではないのだから、返さなくてはいけないのだからと、いつもより少し集中して音に耳を傾けた記憶がある。他にも、試験前にノートを貸したこともあるし、体育の授業のときに体操着を借りたこともある。お気に入りの小説を貸して、すごく気に入ったという感想といっしょに戻ってくると、自分が褒められたようでうれしかった。ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』やトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』だった。どちらかというと、何かを貸す方が多かったけれど、借りたときには、お菓子や文房具を添えて返した。重くならないように、でもよろこんでもらえるように注意した。

掲出句〈涼新た昨日の傘を返しにゆく〉は、そんな昔の一場面を思い出させてくれる。意識もせず、自然と行われていた友人や知人とのやりとり。ああ、そういえばこんなことってあったなと、懐かしい気持ちになる。中７の「昨日の傘」だけで、近所に住む友人か誰かの家に遊びに行って雨に降られ、傘を借りたのが伝わってくる。何となく、借りた傘はビニール傘ではない感じがする。相手は、きちんとした傘を選んで渡してあげているのではないだろうか。そのおざなりではない感じがいい。

作者は返しがてら遊びに行ってまた少し話をするのかもしれない。しかし、長居はなしない感じが、季語「涼新た」の持つ気持ちよさから分かる。下６の「返しにゆく」もとても的確だ。「ゆく」と言ったことで、億劫がらず、前向きに相手と交流していこうという思いが、さりげなく伝わってくる。いい関係だなと思う。借りた傘をシンプルに返す。何かを添えるほどでもない。ただし、きちんとすぐに返すこと。

顔を合わせてのやりとりが昔より希薄になってしまった今、人と付き合うとはこういうことだったなとそっと教えてくれる一句だ。

『はじまりの樹』（2012）所収。

（遠藤容代）

【執筆者プロフィール】
遠藤　容代　（えんどう　ひろよ）
1986年生まれ。「聲」・「天為」所属。句集に『明日の鞄』（ふらんす堂、2025年）。