恋ふる夜は瞳のごとく月ぬれて 成瀬正とし
空気が澄んだ秋の夜は月が綺麗に見える。秋の季語として月を詠む時は、煌煌と照り輝く風情を詠むものだ。掲句の月は〈ぬれて〉と表現されているが、濡れたような艶を持っていたのだろう。〈瞳〉は、自分の瞳ではなく、恋する相手の瞳のことと思われる。涙を溜めた目というよりは、潤んだ眼なのではないだろうか。恋しく想う夜は、月もまた君の瞳のように濡れて見えた。という内容だ。甘くてロマンチックな恋の句と理解されそうだが、実は和歌に詠まれた月のイメージを俳句に仕立てた句なのである。
万葉時代の逢瀬は月夜の晩に限られていた。月夜にも関わらず逢えない場合には、月を見て相手を偲んだ。その発想は、和歌の伝統の中で残り続け、月に相手の面影を見たり、月を通して想いを伝え合ったりした。掲句もまた、月に想いを託し、月の潤みに相手の面影を偲んだのである。恋しい相手もきっと同じ月を見ていて、その瞳が宿している月光を想像したのだ。もしかしたら、城あるいは、城下に残る悲恋伝説になぞらえて詠んだのかもしれない。木曾川のほとりに築かれた犬山城の月は水面に揺らめき、恋心を掻き立てる風情がある。
大学時代の先輩で漫画家を目指している男性がいた。当時彼は、漫画を文学として捉え、卒業論文を書こうとしていた。流麗なタッチの絵を描くものの、物語性が乏しいとされ、賞を逃してきたという。文学から漫画の構想のヒントを得ようとして、逆に漫画のストーリーに文学性を見出したのだ。彼の描いた漫画を読ませて貰ったことがある。学園もののラブコメといった内容で、瞳の描き方が印象に残った。私が「瞳の中に星があるのが、昭和っぽくて良いですね」と言うと彼は、「これがリアルなんだよ。瞳の中には反射で光っている部分があり、恋をするとより光沢を帯びるんだ」と述べた。視覚で捉えたものに心情を反映させ、よりリアルに描くという手法は俳句にも似ている。ある時先輩は、学食の窓から満月をデッサンしていた。夜間部の学生が去ったあとの食堂はがらんとしていて、月が大きく見えた。彼の描く月には、広い湖があった。月の模様の黒っぽく見える部分がデッサンでは、水を湛えているように見えたのだ。すると「君のことも描いてあげよう」と言って、さらさらとペンを走らせた。四つコマ漫画風の簡略化された絵で、漫画の中の私は魔女という設定であった。月をクレープの皮のように剥がして、顔面パックにし「これでお肌ツルツルよ」という内容だ。漫画の中の私の瞳はきらきらしていて、さきほどまで彼が描いていた月によく似ていた。大笑いしたあとで「大きな瞳が魔女設定に合ってますね」と感想を述べると彼は、「君の瞳は黒目がちで、本当にこんな風に見えるよ」と言い、じっと私を見つめた。あまりにも恥ずかしくて目を逸らした。結局、夜の学食で良い雰囲気になった先輩とは、友達のままで終わった。夢追い人同士というのは、恋もまた夢の中の出来事なのだ。
今年の仲秋の名月は10月6日である。ハーベストムーン(収穫月)とも呼ばれる。月を理由に恋する相手にメールをしてみるのも良いかもしれない。「今宵の月は君の瞳のようだ」なんて台詞が似合うのは、城持ちのお殿様だけだけれども。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
【篠崎央子のバックナンバー】
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