胸中に何の火種ぞ黄落す 手塚美佐【季語=黄落(秋)】

 移住した茨城県での生活は、豊かな詩情を産み出した。

  初筑波より福分けの日ざしかな

  桑解くや結城に絹の川ながれ

  糸取りのころを長塚節の居

  筑波嶺の風がいちばん夏座敷

 風狂には、「常軌を逸していること」という意味と「風雅に徹すること」という意味がある。どちらかといえば、風雅の人であるようだ。

  胸中に何の火種ぞ黄落す   手塚美佐

 石川桂郎が亡くなる数か月前に入籍した作者の恋愛遍歴については、分からない。若くして俳句を始め、様々な出逢いがあったものと想像される。

 掲句は、恋の句ではないかもしれない。ただ、〈胸中〉の〈火種〉という表現が恋を匂わせている。火種は、必ずしも恋とは限らない。〈何の火種ぞ〉と表現しているため、その正体は分からないのである。不安や怒り、悲しみの種も火種である。〈黄落〉は。黄色く染まり落ちる葉に秋の深さを感じる季語である。黄落している木を見て、その木の胸中を推し量った句でもある。黄落という明るい景色が何かの想いに染まってゆく心を反映しているように見える。

 日本人は民族の記憶として、もみじの頃になると、胸に迫るような懐かしさを感じるものである。古代では、「もみじ」は「黄葉」と表記し、葉の色づきは収穫の合図であり、収穫と共に祭礼が行われた。祭は男女の恋の出逢いの場であった。秋になると物悲しくなり、人恋しくなるのはそのためという考え方もある。和歌の世界でも秋には恋を詠んだ歌が多い。掲句も恋をしているわけではないのだが、ふと恋をしている時のような切ない感情に襲われたのであろう。恋をしていた頃のことを想い出しているだけかもしれないし、恋愛対象ではない相手にほのかな想いを感じただけかもしれない。また、〈黄落す〉という季語により、若くない恋を想像することもできる。

 友人女性の話である。Aさんは、三十代半ばで離婚し、四十代になって大病を患った。快復し仕事に復帰したのちは、「もう恋は卒業」と言っており、仕事と散歩を趣味としていた。ある時Aさんは、会社の同僚女性の描いた絵が賞を受賞したというので、絵画展を見に行くことになった。会場に行くと、同僚女性は、大学時代の同級生だという男性の相手をしていた。Aさんの顔を見るや、「あ、ちょうど良かった。私は少し席を外すので、二人で一緒に見て回ってくれる?」と言い、別の人の接待をはじめた。Aさんも同級生だという男性も、一瞬ぽかんと顔を見合わせ、少しして笑い合った。お互いに絵のことは分からないながらも「これがいい」とか「この雰囲気が好き」とか言いつつ絵画展を見て回った。ひと通り巡って会場を出たところで男性が「あ、あの店のコーヒー、美味しいんですよ。一緒にいかがですか」と、キッチンカーへ向って歩き出した。ポプラ並木の見えるベンチでコーヒーを飲みながら語り合った。「良かったら今度、浮世絵展を見に行きませんか」と男性が言った時、Aさんは、嬉しいという感情と同時に困ったことになったなという思いが湧いた。でも、帰りの足取りは軽やかであった。この浮かれた気持ちはきっと、黄色く染まったポプラ並木のせいだろうと思った。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。



【篠崎央子のバックナンバー】
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