大学の後輩男性の話である。A君は大学時代、高校生の時から交際していた彼女がいた。彼女は優等生タイプで現実的な将来設計を描きそのレールを走っている人であった。対してA君の夢は小説家になることであった。優等生タイプの彼女が夢追い人のA君と交際することになったのは、A君が「俺と付き合ってくれなかったら死ぬ」と告白したからだそうだ。そのためか彼女はA君に対していつも強気だった。
大学3年生の秋、その彼女が1年間留学することになった。「俺たちは強い絆で結ばれているから1年ぐらい離れていても平気さ」などと言っていたA君だが、彼女が旅立ってから数か月間はとても寂しそうであった。半年も過ぎたころ、A君が明るさを取り戻した。何か良いことでもあったのかと問うと、文学サークルに気の合う女の子が入会してきたのだという。Bさんというその女の子はA君より1学年歳下で小説家を夢見ているらしかった。Bさんと話をするのがとても楽しかったのか、授業やバイトの合間を縫っては毎日逢っているようであった。そのBさんに告白をされたのは、彼女が帰国する3か月前のこと。「彼女さんが帰ってくるまでで良いので付き合って下さい」と言われたのだそうだ。A君はただ何も言わずにBさんを強く抱きしめたとか。濃厚な3か月間はあっという間に過ぎて、留学先から彼女が帰ってくることになった。
彼女が帰国する前日の夜のことである。A君とBさんは最後の想い出にと二人が最初にデートした公園を歩いた。公園の森の小径でBさんが立ち止まって言った。「私と付き合ってくれてありがとう。今日は最後だから、とびっきりかわいい服を着て美味しいものを食べて素敵な夜にしたかった。でも、やめた。そんなことをしたら、もっと悲しくなるから。だから、ここでサヨナラしましょう。もう電話もメールもしない。文学サークルも辞める。元気でね」。A君は驚いてBさんの腕をつかんで言った。「ちょっと待って。今日は、お店も予約してある。もう少し一緒にいようよ」と。夕暮れ近くの森に綿虫が舞いはじめた。Bさんが無表情で呟いた。「お店の予約のため?」。舞い降りた綿虫を払うかのようにA君の手を振り払って、Bさんは去って行った。
その後、帰国した彼女とは考えが嚙み合わなくなり、別れてしまったという。「こんなことならあの時、Bさんにサヨナラしたくないって言えば良かった」とA君が言った。私が「何故言わなかったの? Bさんはきっと、彼女とは別れるからちゃんと付き合おうって言って欲しかったのじゃないかな」と言うとA君はため息をついた。「言うつもりだったんだよね。なのに、お店を予約したとかそんなことが頭をよぎったんだ。というか頭の中がフル回転し過ぎて、言いたい言葉が出てこなかった」。A君は、Bさんが去っていったあと、頭の中を整理してから連絡をしたが、電話もメールも繋がらなかったらしい。
恋愛において、あとから「ああすれば良かった」「こうすれば良かった」と思うことはよくあることである。結論的にいえば、「ああしなかった」のも「こうしなかった」のも、心のどこかに迷いがあったからだ。Bさんが「サヨナラしたくない」ではなく「サヨナラしましょう」と言ったのも迷いがあったからだ。そして迷いよりも何よりも、A君に「サヨナラなんて嫌だ」と言って強く抱きしめて貰いたかったに違いない。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。

【篠崎央子のバックナンバー】
>>〔192〕愛人を水鳥にして帰るかな あざ蓉子
>>〔191〕胸中に何の火種ぞ黄落す 手塚美佐
>>〔190〕猿のように抱かれ干しいちじくを欲る 金原まさ子
>>〔189〕恋ふる夜は瞳のごとく月ぬれて 成瀬正とし
>>〔188〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼
>>〔187〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
>>〔186〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
>>〔185〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
>>〔184〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
>>〔183〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
>>〔182〕恋となる日数に足らぬ祭かな いのうえかつこ
>>〔181〕彼とあう日まで香水つけっぱなし 鎌倉佐弓
>>〔180〕遠縁のをんなのやうな草いきれ 長谷川双魚
>>〔179〕水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
>>〔178〕水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史
>>〔177〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
>>〔176〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
>>〔175〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
>>〔174〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
>>〔173〕寄り添うて眠るでもなき胡蝶かな 太祇
>>〔172〕別々に拾ふタクシー花の雨 岡田史乃
>>〔171〕野遊のしばらく黙りゐる二人 涼野海音
>>〔170〕逢ふたびのミモザの花の遠げむり 後藤比奈夫
>>〔169〕走る走る修二会わが恋ふ御僧も 大石悦子
>>〔168〕薄氷に書いた名を消し書く純愛 高澤晶子
>>〔167〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
>>〔166〕葉牡丹に恋が渦巻く金曜日 浜明史
>>〔165〕さつま汁妻と故郷を異にして 右城暮石
>>〔164〕成人の日は恋人の恋人と 如月真菜
>>〔163〕逢はざりしみじかさに松過ぎにけり 上田五千石
>>〔162〕年惜しむ麻美・眞子・晶子・亜美・マユミ 北大路翼
>>〔161〕ゆず湯の柚子つついて恋を今している 越智友亮
>>〔160〕道逸れてゆきしは恋の狐火か 大野崇文
>>〔159〕わが子宮めくや枯野のヘリポート 柴田千晶
>>〔158〕冬麗や泣かれて抱けば腹突かれ 黒岩徳将
>>〔157〕ひょんの笛ことばにしては愛逃ぐる 池冨芳子
>>〔156〕温め酒女友達なる我に 阪西敦子
>>〔155〕冷やかに傷を舐め合ふ獣かな 澤田和弥
>>〔154〕桐の実の側室ばかりつらなりぬ 峯尾文世
>>〔153〕白芙蓉今日一日は恋人で 宮田朗風
>>〔152〕生涯の恋の数ほど曼珠沙華 大西泰世
>>〔151〕十六夜や間違ひ電話の声に惚れ 内田美紗
>>〔150〕愛に安心なしコスモスの揺れどほし 長谷川秋子
>>〔149〕緋のカンナ夜の女体とひらひらす 富永寒四郎
>>〔148〕夏山に噂の恐き二人かな 倉田紘文
>>〔147〕これ以上愛せぬ水を打つてをり 日下野由季
>>〔146〕七夕や若く愚かに嗅ぎあへる 高山れおな
>>〔145〕宵山の装ひ解かず抱かれけり 角川春樹
>>〔144〕ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ 坂本宮尾
>>〔143〕蛍火や飯盛女飯を盛る 山口青邨
>>〔142〕あひふれしさみだれ傘の重かりし 中村汀女
