ところが、その美容院が見つからない。もらったカードの地図を頼りに上七軒通りから謎の細道へ入ったのだが、和風の民家が並ぶばかりで、すぐに行き止まりに至ってしまう。通りへ戻ってお店へ電話をかけたら、美容師さんがその細道から迎えに来てくれた。どこに店があったのだろうかと後をついて行くと、その細道にならぶ民家のうちのひとつに案内された。今はどうか分からないが、当時は看板もなく、本当に「民家のひとつ」であった。
「まだ内装が整っていないんですけど」と申し訳なさげに通された玄関を上がるとすぐに、床張りに変えたばかりらしき和室の一間があり、美容室でよく見るような回転式の椅子や、頭を洗うためのシャワーがしつらえてあった。椅子に座ったときに正面に位置する、いわゆる「美容院の鏡」は襖の上から掛かっており、窓の外には隣の家の簾が見えた。髪を切った帰りに、そのまま上七軒通りを抜けて北野天満宮に寄り、写真を撮った。非日常的な体験を味わえた気がして、京都まで来てよかったと思った。
上七軒で髪を切り、北野天満宮に寄って帰るという「定期イベント」の中で最も印象的だったことのひとつに、天満宮で梅雨明けに行われる梅の天日干しがある。境内に所狭しと広げられた筵へどんどん梅が運ばれてくる様子は圧倒的で、もしあの時俳句を既に始めていたら……と思い返すたびに少し悔しい気持ちになる。
しかし、やはり一番思い出深いのは美容師さんがしてくれた髪結の仕事の話である。たとえば、その美容師さん曰く、髪結には紙を使うのだという。髪をまとめるための油をその和紙が吸うことで固くなるため、時間が経っても髪型が崩れにくいということを教えてもらい、先人の知恵ですねえ、と感心して応えた記憶がある。また、髪を結いにやって来る舞妓・芸妓の話も時々してくれた。家を建てるために頑張っているだとか、髪を結っている間はスマホでゲームをしているだとかいう話を聞いて、舞妓や芸妓の等身大の姿を、ほんの少しだが間接的に知れた気がした。
ここで、掲句の話に戻りたい。この句の眼目は「外」にあると思う。句の上であえて「外」と書くとき、その句は「外」だけでなく、その対比としての「内」の存在をも匂わせることになるだろう。掲句の場合、この言葉によって、舞妓が通る「外側」と同時に、栗ごはんを食べている「内側」という二つの空間が浮かび上がってくる。ご飯を食べるというのは楽しみであると同時に、大事な休憩の時間でもある。そんな休みのひとときを過ごす「内」に対して、「外」では舞妓が背筋を伸ばしてどこかへ向かっている。栗ごはんと舞妓は掲句の中では一つの景に収まっているものの、実は内と外では異なった時間が流れていて、そうした時間の流れの違いこそを、この句の人物は贅沢に味わっているのだ。
しかし、僕は同時に、この句からもうひとつの「内側」を思う。それは、髪の綺麗に整った舞妓が凛として歩む「外側」に対して、髪を結ってもらっている間にマイホームの夢を語ったり、ゲーム画面を淡々とタップしたりするあの美容室の「内側」である。われわれが見ることのできる舞妓や芸妓は、この意味で全て「外」にいる。ところが、これもまたあえて句の上で「外」と書かれることで、われわれが見ることのない舞妓の「内側」がどこかにあることに気づかされる。その「内」の気配を全く感じさせない舞妓の見事なふるまいに、思わず栗ごはんを食べる箸を止めてしまう人物の様子が、この句から見えてくるような気がするのである。
(田中木江)
【執筆者プロフィール】
田中木江(たなか・きのえ)
1988年: 静岡県浜松市生まれ
2019年: 作句開始
2023年: 「麒麟」入会 西村麒麟氏に師事
2024年: 第1回鱗kokera賞 西村麒麟賞 受賞
2025年: 第8回俳句四季新人奨励賞 受賞