常夏に雨はら〳〵と白い蝶 泉鏡花【季語=常夏(夏)】


常夏に雨はら〳〵と白い蝶
泉鏡花

 昨日発生いたしました熊本県を震源とする地震で被災されたみなさまに、心よりお祈り申し上げます。どうか、一日でも早く、いつもの日々へと、ゆっくりと気持ちを落ちつけることのできる日々へと戻られますように。

 連日の猛暑や突然の雷雨、ざわざわしてしまうようなニュースに、ああ、ちょっととてもではないが……この場には長く居られないとなってしまうことが、ありますね。わたしはそういうとき、自分の好きな世界ばかりを覗きにいってしまいがちになります。しかし、好きな世界を持続させるために、長く居られないかもな、と感じる世界のことも、ちゃんとみないといけない、こちらの世界も持続してほしいと思える世界にするためにはどうしたらよいのかと、考えなくてはいけないのだということはわかっているから、から、から。目が、霞む……もともとわるい視力検査の数値が下がっていました。
 
 わーもう最後なのだなあ、と思うと、いつもわからない。わからないですが、わからないなりに(?)かけたらなあ。わからなくなりながらかくことが、誰かの、何かの足しになれたなら☆。.:*・゜という、若干烏滸がましいような気持ちも添えながらかきつづけていたのが、この連載そのものでもありました(急な告白)。とはいえ、最終回は誰の俳句についてかくかだけは決めておりまして、最後はとにかく言葉のことをたいせつにしていて、その筆で以て此処ではないところへつれだしてくれ書き手の句のことを……。

☆。.:*・゜

 掲句は『泉鏡花俳句集 改訂版』より。

 極彩色の羽のような花びらが無色の雨にひそかにゆれている。
 長いときは春から秋まで咲きつづけるこの花は、季節が何度めぐっても、その名の通りずっと夏のまま。よかった夏のことも、嫌だった夏のことも、この花は、すべて、みているのかなあ。花に記憶をさずけてしまうのは、酷かなあ。だけれど無言で憶えてくれる存在があるだけですくわれる人が居るかもしれないから。
 
 不思議にこの花だけがあかるくあって、ほかには何もない。こちらはまるで居ないような……やさしい空虚の雨。ちいさく薄い花びらをこわさぬように降っているのか、と気がついたときには、なんでこんなところに居るのだっけ、という心地。誰かがこちらに来たかしら、と思ったらそれは白い蝶で、なんで雨の日に蝶々なんて飛んでいるのか、みずからが歩いてきたはずの道がぼやけて、よくみえないが、花を思いながら降る雨と降られてうつくしい花をよろこぶように不規則に飛ぶ蝶が居る、その空間がとんでもなく綺麗で、こちらは入ることもできなくて、うーん、ここはうつつではないなあとへんに冷静になった。だって、現実には雨はざばざばと、地面に、こころに、容赦なく降るものだから……と、思ってしまうのは、こちらの問題かあ。うつつにも誰かを思いながら降る雨があったらいいのに。うまく、げんじつ・とうひ、現実、幻日、晴れていないけれど。でも、この句がいま、ここにあるのは現実だ。

☆。.:*・゜

 掲句の作者である泉鏡花は、明治六年に石川県・金沢市に生まれた作家。敬愛する尾崎紅葉の門下生となるべく十七歳で上京。のちに同じ紅葉門下の徳田秋聲、室生犀星とともに「金沢三文豪」の一人になります。『高野聖』『婦系図』、『龍潭譚』『外科室』など、幻想性を強く帯びた世界を描きながら、幼くして死別した母の面影を色濃く残した作品を次々と発表しました。

  かゝ様とよんでも見たり魂祭 泉鏡花

 鏡花の師匠である紅葉は俳句を多く遺しているため、その影響を受け、鏡花が俳句をはじめたのは自然な流れではあるのですが、興味深いのは紅葉が鋭い言葉で批判していた正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐をはじめとする「日本派」の俳人の一人である内藤鳴雪に、鏡花が俳句の手ほどきを受けていたことで……。紅葉に対して、ほとんど信仰に近いような熱量で接していた鏡花なだけに、この事実を知ったときはかなり驚いたのでした。
 母に読んでもらった美麗な草双紙を大事にとっている鏡花と、幼い頃に絵双紙屋に行くのが好きで、家にない草双紙は近所に借りて読んでいたという鳴雪。『泉鏡花俳句集 改訂版』の編者秋山稔氏の「解説」では、鳴雪が「鏡花文学に通じる」「妖美な物語性のある」鏡花句を「積極的に評価したといってよい」とあり、紅葉に対する気持ちとはまた異なって、こころの奥底の世界で響きあうものがあったのかもしれない、と思うなどしました。
 ……なんだか急に語彙がカタカタしだして何事かといったところでしょうが、何を隠そうわたしは泉鏡花という作家がかなり、世界で最もといってもさしつかえのないほど好きなのです。職権ならぬ、筆権(?)濫用です(開き直り)。でも、鏡花のことをかくときはいつも恐れ多い気がします。

 鏡花と蝶といえば、わたしは鏡花の戯曲『天守物語』のこの一節を思い出します。
 物語最後の、近江之丞桃六の台詞です。

  桃六 (中略)世は戦でも、胡蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。――馬鹿めが。(呵々と笑う)ここに獅子がいる。お祭礼だと思って騒げ。(鑿を当てつつ)槍、刀、弓矢、鉄砲、城の奴等。

 蝶が舞い、撫子(つまり常夏)が咲くって、もうまさにこの句のことだ……(ちなみに『天守物語』には冒頭に雨が降る場面もあるのです)と、いま引きながら思いました。この作品には、各場面に魅力的な台詞が散りばめられているわけですが、そのなかでもとりわけわすれられない一文です。
 同作をはじめ、いくつか鏡花作品を読んでいると、鏡花がかいている異界は、いまこちらがいる世界と完全に切り離された、遠い遠い星みたいな途方もないところではなくて、ふとしたときに入れてしまった……この世と地続きの、あるいはうつつでの、ひどい苦々しさのために、入らざるを得なくなったものたちのための異界でもあるのかもしれないと、なぜだか思われます。ひとしきり癒えたら現世に戻れたり、あるいは『天守物語』の図書之助のように戻れなくなったりしてもいいと思うぐらいの異界が、すぐそこにあってくれたら。いえ、たぶん、あるのです。あらゆる鏡花作品の匂いがほのかに香る鏡花句をたどると、そこにいきつくことができるような気がします。

  髪長き蛍もあらむ夜はふけぬ 泉鏡花

☆。.:*・゜

 ええ。最後はもう怒涛の……怒涛の鏡花へのお気持ちの表明?になってしまいましたが……しかし、かきながら、とても胸がいっぱいで、うれしいです。
 鏡花だけではなく、これまでこの連載を通して句を引用させていただいた書き手の方すべてに対してですが、自分のこころが大丈夫になれるものをかいてのこしてくれている人がこの世にかつて居たり、いまも居てくださったりすることは、とてつもなく、まほう!否、魔法以上にたしかで奇跡的なことなんだーっ!と、ふかぶか、深々思いました。

 最初、というかきょうのきょうまで、句集や連作といった、俳句以外のそのほかは何もない頁から、俳句をわたしがへたに呼び出して、インターネットの海をみせたとき、俳句にとってはどんなみはらしなのだろう、それはいいのかな、どうなのかなあと半分迷わせながらキボ(キーボードのこと)を執っていましたが、そんなのはわたしが知ることではなく(開き直り2)知らなくていいことで、ただただ、九回の連載で引かせていただいた俳句がかかれてきたことと、その俳句を読んだ人が、これからこの句に出会う人が存在しているのだということだけがずっとずっと記憶にあればいいのかあ……!と、落ちました。腑に落ちました。

 平成期のブログ?みたいな、へしょへしょのヨダンノミカタなハイクノミカタをお送りさせていただけたこと、ほんとうに本当にありがとうございました。みなさまに引き続きしあわせが舞い込みますよう!強気で願掛け☆。.:*・゜☆。.:*・゜

    琵琶抱いたまゝ夏のわかれ哉 泉鏡花

おおにしなお


【執筆者プロフィール】
おおにしなお
平成十年、東京都生まれ。俳句をかきます。



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