ヴィーナスの誕生水より新豆腐 仲寒蟬【季語=新豆腐(秋)】


ヴィーナスの誕生水より新豆腐

仲寒蟬

 わかる、わかります、ザバーーーッって感じ、あの名画。海の泡から生まれた西洋の美神と、新大豆が豊かに香る日本の秋の味覚。かけ離れたところにいる両者が、眼前の新豆腐ザバーーーッの瞬間に脳内でガッチリと結びつけられた。「あ」と思った瞬間の作者の高揚が伝わってくる。貝殻は小皿のメタファーか。

 ヴィーナスと新豆腐の、透き通るような肌の白さが響き合う。場面は豆腐屋の店先だろうか。名水を使用しているような、ちょっと由緒がありそうな。ヴィーナスの誕生水と言い切れば、ゆらゆらと波立つ水槽がたちまち清らかな神話の舞台となり、触れてはならない静謐さが辺りを満たす。それは美しい、完全無欠の絹豆腐であっただろう。

『全山落葉』(2023年、ふらんす堂)は仲寒蟬先生の第三句集、とても素敵な題である。不勉強な私は第一、第二句集を拝読しておらず、まず、集中の句の振り幅に驚いた(私は時事詠に「うぶ」なので、とりわけそう感じたのかもしれない)。どの句も自由でいいな、と思う。あとがきに「10年間の俳句約4万句」とあり(!)、それだけの数の句が、注ぎたてのシャンパンの泡のようにシュワワシュワワと生まれ続ける映像が浮かんだ。うまく説明できないけれど、どの句も作者が「本当に感じたこと」であり「本当に思っていること」である気がする。その真実味さえあれば、自身のどのような句に対しても分け隔てがない。これは一種の博愛だなぁ。

どこにでもゐる小林と野焼見に
みづうみは薄目あけたりほととぎす
貝寄風やけふあたり着く遣隋使
隣国を侵して何の豊の秋

 ある人の人格や思考活動を100%として、俳句に表れてくるのは一体何%くらいなのだろう。人によって、俳句になりやすい部分となりにくい部分も違いそうだ。昨年の今頃、私は一生懸命句集を編んでいて、「この句集は私の人生を映しているけれど、この句集が私の人生ってことはないな」ということをぼんやり思っていた。ざっくりと端折っている部分があるのだ。当たり前か。

 その人がどんな人か、どの部分を俳句として切り出していくのか(どの程度俳句にアクセス権限を与えるのか)、それらの変数のかけ合わせは無数にあって、正解や理想というものはないのだろう。例えば明日、私がバリバリ世界情勢を詠み出すことはないかもしれないが、でも、だけど。これは○○詠だ、これは△△な句だと自らラベルを貼ることなく、自分だけが感じたことをそれ自体ワンジャンルとして、もっと自由に、もっと大事にしてあげていい。すなわち、生きれば生きるほど詠める俳句の可能性は広がっていくのかと、大いに勇気づけられた一冊だった。

どの扉開けてもそこが春の牧

(荻野ゆ佑子)


【執筆者プロフィール】
荻野ゆ佑子(おぎの・ゆうこ)
1977年生まれ。1997年「藍生」入会を経て、2020年「銀漢」入会。「ソウル俳句会」帰国会員。句集『みお』(2026年、ふらんす堂)。


◆自選十二句
この良夜どちらがどちら見送るか
鶏一羽炊いてソウルの雪深し
ちちははといもうとのゆめ遅櫻
十畳の荒野ありけり寝冷の子
蟻といふけなげなものを振り払ふ
香り立つ文鎮として青蜜柑
どんぐりを拾ひをりしが謎拾ふ
袴にもまつはる紐や七五三
絨毯の鳳凰の目を踏まぬやう
薄氷はみづの瘡蓋かもしれぬ
白梅を褒めむ淋しき吾子褒めむ
雛段の雪崩るるごとし飛騨泊


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