教科書の死角に小鳥来てをりぬ 嵯峨根鈴子【季語=小鳥来る(秋)】

教科書の死角に小鳥来てをりぬ

嵯峨根鈴子

「教科書の死角」とは何だろう? 死角とは「角度によっては見えない範囲」「近くにありながら気付かないこと」を意味する。作者にとっては見えている、気づいていることだが、他者には見えておらず、気づいてもいないこと。己と他の差。個性。孤独……わかるような、わからないような導入がちょっとした謎かけのようで、こちら(読者)の連想を広げていく。

その死角には小鳥が来ているらしい。ますます「?」となる。いや、この句における「教科書」とは単純に「教科書を広げて勉強している中学または高校の教室と生徒」の象徴で、皆が下を向いて授業を受けている最中、ふいに窓辺に小鳥がやってきたのだが作者以外は誰もその到来に気づいていない。それだけのことなのかもしれない。しかし、ならばなぜ「死角」という強烈な言葉なのか? もしかすると「皆とは違う自分(作者)だけの世界」を「死角」と言っているのではなかろうか。そう考えると、また別の疑問が湧いてくる。そもそもこの「小鳥」とは実物なのだろうか? 季語として捉えれば確かにそうだが、前述のように「死角=作者だけの世界」だと仮定すると、この句の「小鳥」は作者自身の日常での思いがけない発見や感情の到来のようにも思えてくる。

作者だけが見えてその世界にやってくる小鳥。そして、その小鳥だけが見ることができ、共有できる作者の世界と胸の裡。その出会いと共犯関係を作者はひそかに大切に思っている。ゆえに死角は聖域に近くなり、より美しく煌めく。

そう読み解くと、前述の「中学または高校の教室と生徒」の場面が、十代ゆえの独りよがりながら、不安と表裏一体の完璧さに支えられた自分だけの世界として懐かしく私の胸に蘇ってくるのである。

顧みると私自身、十代の頃は興味のない授業の時は教科書の内側に漫画や小説を隠して読んでいた。あるいは、文芸部だったので教科書を盾に締め切りが迫っている部誌の小説や詩を書いていた。そんなふうに、教科書で自分の世界をこっそり覆い隠していた(つもりだった。きっと先生にはバレていただろうが)。死角をつくることで得られる心理的な安心と自由。窮屈な制服に包まれた体と心は、きまぐれな天候のように毎日くるくる変わっていた。ある時は好きなのにある時は急に嫌いになる友達。なのに、独りになることを過剰に恐れていた。そんな日々、物を読んだり書くことは一つの拠り所だった。授業は上の空で他者の言葉の世界に埋没したり自分の言葉の中で迷っていると、たまにとても遠い場所に自分が行ってしまったように感じた。その瞬間はとてもきれいで遥かで、あの時私のところにも私だけの小鳥が来ていてくれたのかもしれない。

掲句の生まれるきっかけは小さな実景だったのかもしれない。でも、生活の雑事にすぐに埋もれてしまう些細な場面に気づくことが自分の世界の発見、もしくは表現への入り口であり出会いなのではないか。

そういえば、部誌の名称は『邂逅』だった。思いがけぬめぐりあいを意味するその言葉を当時は実感することもなかったが、現在の私にとって俳句は一つの邂逅なのだと思う。

その意味で、今も私は文芸部の延長で思いを馳せながら言葉を追い続け、小鳥の到来を待つ日々の中にいるのかもしれない。

嵯峨根鈴子『ラストシーン』(2016)所収。

(柏柳明子)


【執筆者プロフィール】
柏柳明子(かしわやなぎ・あきこ)
1972年生まれ。「炎環」同人・「豆の木」参加。第30回現代俳句新人賞、第18回炎環賞。現代俳句協会会員。句集『揮発』(現代俳句協会、2015年)、『柔き棘』(紅書房、2020年)。2025年、ネットプリント俳句紙『ハニカム』創刊。
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【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
〔9月11日〕手をあげて此世の友は来りけり 三橋敏雄
〔9月12日〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
〔9月13日〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
〔9月14日〕星が生まれる魚が生まれるはやさかな 大石雄介
〔9月15日〕おやすみ
〔9月16日〕星のかわりに巡ってくれる 暮田真名
〔9月17日〕落栗やなにかと言へばすぐ谺 芝不器男
〔9月18日〕枝豆歯のない口で人の好いやつ 渥美清
〔9月19日〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
〔9月20日〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
〔9月21日〕五体ほど良く流れさくら見えて来た 平田修
〔9月22日〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼

【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
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〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)

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