軽き咳して夏葱の刻を過ぐ 飯島晴子【季語=夏葱(夏)】


軽き咳して夏葱の刻を過ぐ)

飯島晴子

 一読、ごほんごほんと咳をしながら葱畑を過ってゆく景色が見えてくるわけであるが、「刻」という一語からさらに世界は深まる。「夏葱の刻」が具体的に何時かを探っても仕方あるまい。夏葱の刻は夏葱の刻なのである。夏葱のどこまでも満ち溢れている、その目の前の時間でよりほかない。われわれが別の言葉で説明しうる「刻」ではないからこそ、「夏葱の刻」なのだろう。夏葱が何列も、どこまでも連なる空間ががあっと広がってゆくのに要するその時間も思わされる。そこを過ってゆくのである。そうすると、「過ぐ」は、空間的な意味から時間的な意味へと、比重が移ってゆく。その過程もまた、読み手としては面白い。

 晴子はエッセイ「葱」で、永田耕衣の〈夢の世に葱を作りて寂しさよ〉や加藤楸邨の〈葱切つて潑剌たる香悪の中〉を挙げ、「野菜のなかで最も日常的で、普遍的で、土俗的で、平凡卑俗な物」だからこそ「相当無理な形而上的体重を乗せても、葱は詩として耐えられる」と述べている。しかしながら、掲句にはそのような「形而上的体重」は全くなく、叙情を嫌った晴子らしい。「夏葱の実物とは関係なく、夏葱という言葉にはどこか瀟洒な趣がある」「夏の葱と言ってしまうと、もうそれは夏葱ではなく葱になってしまう」と続けており、先日紹介した「言葉桐の花」の論を思わせる。「夏葱とは、言葉だけの世界に存在するものである」とさえ言っている。そうすると俄然、葱畑が美しく見えてくるのである。

 掲句と同じく『蕨手』所収の〈竹林の日すぢに懸かる父の咳〉は、勢いの良い「咳」の飛沫の粒がみどりと交錯するところを思わせるが、掲句からは飛沫が見えない。それは「軽い」咳であり、足早に過ぎ去ってゆくからでもあり、何よりも、「夏葱」という言葉によって静かで清らかな空気が立ち上がるからだと思う。

小山玄紀


【執筆者プロフィール】
小山玄紀(こやま・げんき)
平成九年大阪生。櫂未知子・佐藤郁良に師事、「群青」同人。第六回星野立子新人賞、第六回俳句四季新人賞。句集に『ぼうぶら』。俳人協会会員


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