わが恋人涼しチョークの粉がこぼれ
友岡子郷
(『遠方』)
チョークというと学校の授業を思い出してしまう。俳句に詠まれたチョークの句の多くは教師の作品である。学校以外にも、駅の伝言板や料理店のおすすめメニューもチョークで書かれる。手や服に付着する白い粉が疎ましい。
高校時代の数学の先生は、夏場でも黒いスーツを纏いスポーツカーで出勤してくる美青年であった。名前が「完地」と書いてカンチと読むため、当時流行っていた柴門ふみ原作の漫画『東京ラブストーリー』の主人公の呼び名と被り、騒めいた。女子高生たちは、朝早くから駐車場で待ち構えてカンチ先生を隠し撮りしたものである。廊下を歩いているだけで女子が「きゃーカンチ」と叫ぶので、相当鬱陶しい思いをしたのだろう。私は、友人の告白もチョコレートもぶっきらぼうに突き返すカンチ先生が嫌いだった。ある時、数学のテストで満点を取った。職員室に呼ばれ「理系クラスに入らないか」と言われたが文学が好きなので断った。カンチ先生は、急に私の頭を撫でて「そうかそうか、文学頑張れ」と言った。クールな印象の先生が優しい顔をしたので少しドキッとした。その後は、授業のたびにときめいた。黒いスーツの袖に着いたチョークを神経質に払う仕草もセクシーに見えてしまう。黒板に乱暴に書く数式も折れたチョークに舌打ちをする姿も方程式を解き終えた後の涼しい気持ちにさせてくれた。あの時、理系クラスを選んでいれば、カンチ先生ともっと親しくなれたのに。そして、文学に苦労する人生は送らずに済んだのに。
教師と生徒の恋は、島崎藤村の詩『初恋』が有名である。川端康成の小説『みづうみ』では、コンプレックスを抱えた主人公の教師が女子生徒を尾行して関係を持つ。文学を志す教師と女生徒の恋は、結婚には至らない。
1972年封切のイタリア映画『高校教師』はアラン・ドロンが教師役を演じる。人妻と逃れてきた町で高校教師となり、娼婦の娘である女生徒と恋仲になる。亭主から略奪した女と暮しながら、女生徒に興味を持つのもいかがなものかと思うのだが、女もまた浮気をしていた。母の指導により娼婦となった女生徒も孤独な表情を見せる教師に惹かれてゆく。最後は二人で町を出る約束をするのだが。
1993年のドラマ『高校教師』(脚本:野島伸司)では、父親と近親相姦の関係にある少女が理科の教師に恋をする。教師は、自分の論文を盗作した指導教授の娘と婚約していた。婚約者の浮気を知り苦悩の果てに婚約を破棄する。動物園で、一緒に泣いてくれた女生徒と心を通わせ恋仲となる。最終回は、心中を予感させる内容であった。教師と生徒の恋は、ハッピーエンドにはなりにくい。
ちなみに私が文学を志す切っ掛けとなった国語教師は、教え子と結婚している。初めて担任を持った時の生徒が数年後に教育実習でやってきて、葛藤を抱えつつも恋仲となってしまったらしい。教え子の授業をはらはらしながらサポートしていたことが恋へと発展したのだ。先生の奥様が言うには「生徒だった時代、小説家を挫折したダサい先生に恋心を抱き国文科へ進学したの。教育実習の指導教官に指名して、初恋を叶えることができたのよ」とのこと。教える側と教えられる側が恋に落ちるのは当然と言えば当然である。その後、奥様は専門学校の文学講師となり、夫となった先生よりも高収入になったとか。弟子とか後輩が輝くことは嬉しいのだけれども先生としては複雑な気持ちであろう。
わが恋人涼しチョークの粉がこぼれ
友岡子郷
(『遠方』)
作者は、大学在学中、高浜虚子の「ホトトギス」、波多野爽波の「青」に投句。教師をしながら同人誌「椰子」を創刊。チョークや黒板の句が多い。掲句は、若い頃の句なので、恋人は同僚の教師であろう。
教師同士もまた恋愛関係になりやすい。生徒の手前、婚約するまでは二人の仲は秘密にするものである。中学校の父兄参観日の時である。担任の女教師の授業を男教師が廊下の窓から覗いていた。同僚の友情としか思わなかった。不良生徒の暴走を監視する役目もあったのだろう。授業は問題なく終了するのだが、教室の外にいた男教師は「お疲れ様」と言ってハンカチを渡す。女教師の紺のスーツにはチョークの粉が薄雪のように付着していた。当然ながら生徒達が冷やかす。二人が婚約を発表したのはその数か月後である。
私の大学時代の男友達は、非常勤講師の若き女研究者のファンであった。授業が終わるたびに質問しに行き、さらには、他大学の授業まで聴講してしまう。彼のなかでは、心の恋人であったらしい。女講師の黒髪に降りそそぐチョークの粉までもきらきらとして美しく見えたとか。ストーカー寸前なのだが、私もまた要らぬ助言をしてしまった。「授業が終わった先生におしぼりを渡したら好感度があがるよ」と。女の研究者は、チョークの粉を気にしないものである。男以上に男らしくなければ生き残っていけないからだ。男友達の気の利いた差し入れにどのような効果があったのかは分からない。論文の相談にかこつけて二人で酒を飲んだこともあるらしい。
結果的に女講師は、大学院時代の先輩研究者と結婚した。先生への恋とはそんな結論が無難である。結婚相手の先輩もまた、彼女の授業を聴講し恋人の落とすチョークの粉を眩しく見ていたのだろう。
男にとって恋人とは、涼しく映るものである。だが、チョークの粉を零すようなぎこちなさの残る恋人の授業に対し「俺だったらこうするのに」とか上目線での視点があっても良いはずだ。まだ交際が浅かったのか、絶対的な崇拝があったのか。一生懸命語る恋人の講義に受講者もチョークの粉のように引き込まれていたのだろう。「俺が育ててやる」という目線ではなく〈涼し〉と捉えた、作者の恋人に対する憧れや純情さがこの句の良さである。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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