日常や椿一輪が重たし 金子皆子【季語=椿(春)】

  

 一方で皆子の心境はどうだったのだろうか。70歳を過ぎ、癌になった身で30歳年下の主治醫に恋をしたことを家族に告げるのは勇気のいることだったと思う。叶えてはいけない恋である前に実ることのない恋。絶対に届かない恋だと知っていたからこそ、家族に告げることができたのかもしれない。この恋は、皆子にとって最初で最後のわがままだったのだ。

  左腎に腫瘍、発見される
  我は呆然たり夾竹桃の花冠
  夾竹桃の深紅闘うものは何

 遠距離通院が始まって間もなく、左腎に転移。毒性のある夾竹桃の赤い花が覆いかぶさってくる。〈闘うものは何〉との問いかけは病人の率直な疑問である。病とは美しく残酷だ。

  夫は遠くにいつも遠くに鱗雲

 旭市のホテルで過ごす半月、熊谷に暮らす夫とは遠距離夫婦になる。だが、それ以前から夫は遠い存在だった。自分の世界を持って生きている兜太、俳句大会の選者や講演でいつも東奔西走している兜太。追いかけても追いつけない、つかみどころのない鱗雲のような人。そんな想いを抱き続けてきたのではないだろうか。

    私は海を想う梓の花が好き
  苦しかりわが想いあり黒揚羽蝶(あげは)
  氷菓子恋も自在に回りはじめる

 左腎手術前の旭市でのホテル滞在中の句である。ホテルからは、海が見えた。そして白い梓の花。白い花も海も主治醫を想起させる。恋は楽しいばかりではない。苦しみを伴う。黒揚羽が心に影を差す。だが、想いは氷菓子のように自在に回って溢れてゆく。

    旭中央病院泌尿器科に入院、一〇〇号室へ
  命預ける信あれば今の秋
  私と醫師のフーガ染まりゆく黄櫨の木

 手術のため入院。再び主治醫に命を預けることになる。以前よりも強い信頼関係に結ばれて。執刀医と患者という関係を楽曲形式のフーガに喩え、その音色は黄櫨を染めてゆく。黄櫨は、自身の黄疸への比喩と思われる。

  宇宙あり醫師あり我は一羽の桃花鳥(とき)
  百日紅恋人がいます恋人がいます

 手術を目前に控え、醫師と自分を宇宙という空間に閉じ込める。自身は醫師のなかの宇宙を飛ぶ一羽の桃花鳥だという。手塚治虫の『火の鳥』に匹敵する壮大さである。自身を桃色の鳥に喩えるところは少女のようでもある。百日紅は、主治醫と出会った熊谷総合病院の前にあった花。あの日と同じように恋しい人がいる。もう秘密にはしない。何回でも言うのだ。恋しい人がいると。
愛する夫と家族がいる皆子の恋を誰も責めることはできない。癌を患い手術をすることになって、不安で怖くてたまらない時に、「大丈夫です。僕に任せて下さい」と言われれば、惚れてしまうだろう。主治醫というのは、無条件で格好良く見えるものなのだ。

  手術後の醫師に野生あり嗚呼秋冷
         野生とは一途なること
  涙も尿も想いも熱き朧かな
  右腎なく左腎激痛も薔薇なり
  齢などなし出遇いありてこそ薔薇なり

 手術を終えた後の醫師に野性を感じたという。生命力のようなものを感じたのであろうか。意識が朦朧としたなかで尿は熱く、恋の涙のようであった。右腎を失い、残る左腎は激痛。そんな身体を薔薇に喩えた。薔薇の棘のように痛み、そして赤い。恋する気持ちもまた薔薇のようである。恋に年齢など関係ない。出遭った縁こそ薔薇なのである。

  霧笛の夜嗚咽込み上げてくる思慕
  霧笛の夜こころの馬を放してしまう
  心の隙間霧笛も紅薔薇も詰める

 旭市のホテルからは海霧が見え、霧笛が聞こえた。一人で過ごす夜は、主治醫を想い嗚咽する。込み上げる想いに耐え兼ね、〈こころの馬〉を放してしまう。その隙間には恋の嗚咽である霧笛と病と恋の痛みの象徴である薔薇を詰める。

  「花幻 ―快復に向かいつつも引きつづき療養の日常の中で―」の章。

  薔薇の体なりと強く自覚する、生きねばと
  薔薇の体に霧笛沁みこむ海の街
  亡父(ちち)の白衣は野薔薇の幼児期にあって
  海の街霧笛に白衣重なってきます

霧笛はやがて想い人である主治醫を想起させるようになり、薔薇の体に沁み込んでゆく。皆子の父は眼科医で、亡き父の白衣が野薔薇のように白かったことを思い出す。そして霧笛の音に主治醫の白衣が重なるという聴覚から視覚への転換が起こる。

  泣きながら星座の湖のなか歩く
  砂嵐言葉呑み込み星を呑み込み
  二人の影は砂に落ちている星座

 海霧と霧笛に込められた一人の夜は、幻想的な空間を生み出し、詩情性の高い句を多く生み出した。恋は、生きる力とともに詩を生む力を与えてくれたのだ。

  寒の薔薇人恋うは生きる証なり
  寒の薔薇心に十字架を置いて

 年末年始と七十七歳の誕生日を家族で祝った後、再び旭市へ滞在。「海程」同人の山中葛子氏を同伴。痛みは薄らいでおり、葛子氏と旅行を楽しんだ。そんな中でも恋は常に薔薇の体を占めていた。痛みや苦しみが生きている証であるように〈人恋うは生きる証〉だと実感する。恋する想いを〈心の十字架〉とも詠んでおり、罪の意識もあったのかもしれない。

  野面のその果ての冬の海想う
  恋人よ金縷梅の花は透明
  寒紅梅花増えてゆけば会いたし

熊谷の家に戻っている時も旭市の海を想い、恋しい人の幻を追う。離れていればいるほどに会いたいと願う。

  日常や椿一輪が重たし   金子皆子

 掲句は、快復に向かいつつ熊谷の家で過ごす日々を描いた一連の最後に置かれている。熊谷の家では、杖を突きながら庭を歩いたり、蕗の薹を摘んだりしている。夫や息子夫妻、孫の様子も描かれている。金子邸の庭は吟行ができるほど四季折々の草花が咲き乱れると噂に聞いたことがある。冬から浅春にかけての沢山の草木の花の句が並んでいる。その合間に主治醫を想う恋の句が挟まれている。
 〈椿一輪〉の句は、主治醫を想っての句である。皆子は、病む身を薔薇に喩え繰り返し詠んだ。薔薇だけでなく、紫雲英・曼珠沙華・百日紅・夾竹桃などの赤い花に憑依して詠んだ。椿もその流れにある。赤い花は、痛みの色であり、身に巣くう悪性腫瘍でもあった。一方で、それは恋する痛みと同化してゆく。病が癒えて日常に戻ると、主治醫との距離が遠くなる。すると、恋の病が疼き始める。椿の花のようにずっしりと重く心を塞いでいく。病の痛みと恋の痛みは、どちらが苦しいだろうか。想い人が主治醫である限り、同等であったと考えるべきであろう。だから、病の痛みも恋の痛みも花に喩えられたのだ。恋はいつも病とともにあったのだ。
  如月や椿の海という地名
  如月は水の季節と思う恋
  如月や熱き瞳にいま溺れいる
  会う日まで椿の花を充たす胸
 旭市で詠んだ句である。その周辺は、かつて「椿海(つばきのうみ)」と呼ばれていたらしい。海や白い花と同様に椿もまた恋しい人を想起させる花だったのだ。秩父の山育ちだった皆子にとって海は憧れだった。海のきらめきは恋のきらめきへと変わってゆき、主治醫の瞳を想う。胸に巣くう椿は恋であり病である。椿の花を胸にいっぱいに詰めて旭市を後にする。皆子の闘病生活と恋はまだまだつづく。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。



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