この「たがや」、考えてみると、いや、考えるまでもなく凄惨な噺です。大群衆の中で三人(演者によっては四人)が血しぶきをあげて斬殺され、最後には生首が宙を舞うわけですから。そんな恐ろしい内容だけに、明るく楽しく演じなければ笑いは取れません。そう考えると、川柳、狂歌、端唄は効果的でも、俳句の真面目さは邪魔になるのかもしれません。
ところで、天下の旗本が一介の職人に切り殺されるという内容は、江戸の為政者にとって看過できないものだったはずです。落語研究家で近代文学研究家の興津要氏は、もともと「たがや」は最後に侍ではなく、たが屋の首が飛ぶというオチだったと述べています。「安政2年(1855年)、江戸の大地震の結果、復興景気で職人の手間賃が四、五倍にはねあがったので、寄席へも職人がたくさん来るようになった。そこで、この噺も、職人仲間のたがやに花を持たせるように改作して、寄席の職人たちをよろこばせたのだった」(興津要編「古典落語」講談社)。もっとも、これを裏付ける資料は見つかっておらず、確実なことは、明治中期の速記本ではすでに、たが屋が侍の首を切るプロットだったということです。
いずれにせよ、明治から令和の現在まで、「たがや」は横暴な権力者に対する庶民のレジスタンスとして、夏の高座を沸せてきました。それに一人だけ首肯しなかった落語家がいます。2011年に世を去った落語界の反逆児、立川談志です。レジスタントがレジスタンス物語に抵抗を示すという話ですが、ずっと談志はたが屋の首を飛ばしてオチにしていました。
いくら落語とはいえ、刀を握ったこともない職人に武士三人が切られるというのは荒唐無稽すぎます。これがロジカルな談志には受け入れがたかったのかもしれませんが、私は談志がより嫌っていたのは、「たがや」の物語が持つ観客に媚びるポピュリズムだったように感じています。
というのも、談志は「たがや」を高座に掛けるときに、「『たがや』を演るんだけどな。サゲは『たーがやー』ってんで、これでおしまい。みんな知ってンだろ。小朝もやりゃあ、円楽もやるしさ・・・・・・」と、いきなりオチから語り始めるのが常でした。ネタばらしによるアンチクライマックスを仕掛け、誰もがやる定番だと予告して客の期待を減じ、最後に他の演者とは逆の結末を提示する。それはまるで「こんなご都合主義な噺はありがたがって聴くようなもんじゃない。百年変わらず侍の首を飛ばして喜んでいる噺家も客もロクなもんじゃない」と憎まれ口を叩くために「たがや」を高座に掛けているかの印象でした。
もうひとつ、たが屋の首が飛ぶオチは、いかにも談志好みの要素がありました。談志は笑いにつながりやすい人間の弱さだけでなく、もっとドロドロした醜さや残酷さも描きたがる落語家でした。「たがや」において、橋の上の群衆たちは、たが屋と旗本一行のトラブルに大喜びします。たが屋に声援を送り、侍たちにヤジを飛ばし、履いていた下駄や草履も脱いで投げつけ、ここぞと“炎上”させます。にもかかわらず、最後にたが屋の首が飛べば嬉々として「たーがやー」と叫ぶ。騒げれば何でもいいという匿名性に隠れた群衆の無責任さはいかにも談志好みであり、現代にも通じるリアルと言えるでしょう。
俳句は作為と説明と予定調和を嫌います。職人が侍を返り討ちにするという「たがや」は、作為的な設定と説明的な語り(「たがや」は登場人物同士の会話を主体にするのではなく、演者による情景や心理の叙述を中心に展開する「地噺」の性格が強い落語です) によって作り上げる予定調和の物語です。 談志はこの予定調和が我慢ならず、たが屋の首を飛ばし、それ以外の落語家は芸の力で予定調和をねじ伏せようとすると言っていいかもしれません(談志に言わせれば、そこまで考えている噺家なんかいるもんかとなるのでしょうが)。共通点の多い落語と俳句ですが、「たがや」を聴くと両者の大きな違いに気づきます。
あっ、そうか。だから「たがや」は俳句と相性が悪いのか・・・・・・。
CDで「談志百席『平林』『たが屋』」(日本コロンビア)があり、これはAmazonのオーディオブック「Audible(オーディブル)」からも聴けます。
【執筆者プロフィール】
三橋五七(みつはし・ごしち)
蒼海俳句会所属。第70回角川俳句賞次席。
中学1年生のときにたまたまラジオで聴いた十代目金原亭馬生の「抜け雀」に衝撃を受けて以来の落語ファン。
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