空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明【季語=稲の花(秋)】


空へゆく階段のなし稲の花

田中裕明
(『夜の客人』所収)


記憶に触れる

家人が親友Tさんを亡くした。もう三年になるが、いまだに折に触れて「死んだら人はどこに行くんや?Tはいまどこにいるんや?」とつぶやいている。会いたいとも言う。Tさんとは十五の春からの付き合い、青春をともに過ごした日々の濃密さ、大人になってもずっと親友であったことを思うと、きっと言葉にならない喪失感だろう。そして掲句をふと思い出す。

たいそう可愛がっていただいたので、三回忌にお花とともに、Tさんのことを詠んだ句に付箋をつけてわたしの第一句集を送った。家人はTさんを偲ぶ会に句集を持っていった。

俳句には「共感」という醍醐味がある。今回、Tさんのご家族やご友人から拙句の感想を伝え聞いたとき、いままでに味わったことのないタイプの「共感」を知った。句を読むひとの記憶に触れ、そこから読者と作者の感情が柔らかくひとつに包みこまれていく感じ。ひとつの句を通じてみなさんがそれぞれのTさんを思い出す、その一瞬を共有することのできる、穏やかで澄みきった透明な時間だった。

『夜の客人』では、掲句のあと、<目のなかに芒原あり森賀まり>、<星月夜十年待つと伝言して>、<海亀の涙もろきは我かと思ふ>と句が続き、発病と前書きにある<爽やかに俳句の神に愛されて>の句がやがて現れる。切れ目のないけがや病気に終止符を打ち、俳句と人生に取り組みたいとの裕明のあとがきとともに味わう、この句集で大切に読んでいるところのひとつである。このあとがきには、

-大峯あきらさんにいただいた「いのちが生きることを肯定しているから、あなたはなにもしなくていいよ」という言葉に、入院中、どれだけ励まされたことか。-

とも書かれてある。つらくなったとき、わたしもこの言葉に励まされている。そんなわけで、「秋草」の句会にはおまじないのように『夜の客人』を携行している(句会がつらいわけでは決してありません)。

家人がもうすこし俳句に慣れてきたら、裕明の掲句を伝えてみようと思っている。

村上瑠璃甫


【執筆者プロフィール】
村上瑠璃甫(むらかみ・るりほ)「秋草」所属
1968年 大阪生まれ
2018年 俳句を始める
2020年12月 「秋草」入会、山口昭男に師事
2024年6月 第一句集『羽根』を朔出版より刊行


これまで見たことのない大胆な取り合わせに、思わずはっと息をのむ。選び抜かれた言葉は透明感をまとい、一句一句が胸の奥深くまで届くような心地よさが魅力。今、注目の俳誌「秋草」で活躍する精鋭俳人の、待望の初句集!「秋草」以後の298句収録。

村上瑠璃甫句集『羽根』

発行:2024年6月6日
序文:山口昭男
装丁装画:奥村靫正/TSTJ
四六判仮フランス装 184頁
定価:2200円(税込)
ISBN:978-4-911090-10-7 C0092



2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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