稲妻となつてお前を喜ばさう 竹岡一郎【季語=稲妻(秋)】

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稲妻となつてお前を喜ばさう

竹岡一郎 


英語やフランス語は、「客観的事実」から「現実味のうすい内容」を引き離すことが、文法的に構造化されている。「仮定法」とか「条件法」と呼ばれているのがそれで、掲句も「稲妻となる」の部分は「直説法」で記述することはできない。「お前を喜ばさう」というのは、フランス語なら「条件法現在」、英語なら「仮定法現在」ということになる。

俳句をやっていると、日本語という言語に「主語が必要ないこと」の重要性をつねづね感じるが、しかし、このような「仮定法」や「条件法」のような内容が、かたちのうえでは「直説法」と明確に区別されないということもまた、案外重要であるような気がする。

というのも、たとえばこの句の前半部分を英語にするときに、「If I were a lightning」としてしまうことができるかというと、できないような気がするからだ。日本語のテンションとしては、「私は稲妻なので」という「事実」の内容に近いからである。

要は、「Because I am a lightning…」という「唐突さ」と「なりきり感」が、「稲妻となつて」の部分の意味するところなのであり、後半部分からはこの「稲妻」の比喩的内容がさらに限定されるのもポイントだ。

こういうのは説明するのも野暮だろうとは思うけれども、この「稲妻」には、性的なコノテーションが含まれている。

つまり〈快感〉にかかる「痺れるような」「電流が走ったような」という形容詞を、「稲妻」に置き換えている、とひとまずはそういうことになる。ロックスターになることを夢見ている、20代男子が吐き捨てそうな言葉だ。

いいかえれば、この〈自己過大評価〉の向こうには、作者の〈矮小さ〉が透けて見えるのであり、そこが愛らしいといえば、まあ、愛らしい。

いちど家庭をもってしまえば、このような捨てゼリフは吐くことができないのだし、それを「はあ? 何いってんの?」と全否定しないような「お前」が身近にいることは、微笑ましいといえば、まあ、微笑ましい。

この句が収められている句集の表題句となった〈蜂の巣の俺人生はマシンガン〉にも、似たようなところがある。ここに出てくるのは、〈お前〉ではなく〈俺〉だ。

マシンガンでばばばばばばば、と撃ち抜かれた人生は、まるで蜂の巣のようだ、ということだろう。いったい何があったのかは知る由もないが、このような自己認識と「稲妻となつて」という過大評価は、表裏一体のように思える。

季語を自己イメージの一部として使うというのは、たえまない「自己PR」を余儀なくされている現代のナルシシズムのようにも思えてきて、それはそれで痛々しい。

その「痛々しさ」が、魅力といえば、まあ、魅力なのだ。

『蜂の巣マシンガン』(ふらんす堂、2011)より。

(堀切克洋)

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