井上泰至の「漢字という親を棄てられない私たち」

【連載】漢字という親を棄てられない私たち/井上泰至【第6回】


【連載】
漢字という親を棄てられない私たち/井上泰至


【第6回】
平仮名を音の意味にした犯人


 テレビで、俳句の音数を「文字」と表現した。すると、SNS上で、俳句は十七音であって十七文字ではないという、憤慨した「つぶやき」を発見した(現在は削除されている)。しかし、俳句は十七「音」の文学でもあり、同時に十七「文字」の文学でもある。辞書を引けば、十七文字とは俳句(発句)のことだと書いてある。用例は井原西鶴の、

  今日の月十七文字をおもひよる 

  名乗かへして一代の秋

である。俳句のご先祖である、和歌も三十一文字とは言っても、三十一音とは言わない。つまり、平仮名は音をも意味したのである。なぜなのか?

 一般に我々は平仮名を日本語の文字だとのみ思い込んでいるが、実は漢字崩れで表記しているに過ぎない。「あ」は「安」の、「い」は「以」のくずし字なのだ。「名」とは「字」の意味であり、「仮」は仮初の意味であり、その反対語は「真」である。だから、漢字のことを「真名」と呼んだ。つまり、仮名とは文字表記であると同時に、漢字から意味を棄てて音だけを頂戴したものだったのである。

  紫草(むらさき)のにほへる(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

 人妻へ愛情を率直に詠んだ後の天武天皇、大海人皇子の万葉歌であるが、仮名が出来ていない奈良時代は、こう表記されていたのである。

  紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓  吾恋目八方

 音と文字を厳密に区別して日本語、特に短歌・俳句を理解するようになったのは、近代になってからのことである。私の大学時代の国語学の恩師森岡健二先生の言葉を思い出す。戦中は関東軍の情報将校だったが、戦後はアメリカに留学して構造言語学の理論を学ばれた。その森岡先生は、日本語を音韻・語彙・文の構造・文体の順に、ミクロからマクロに解説されていく。その授業の冒頭、

「諸君は、文字を憶えることを国語の勉強だと思ってきたろうが、欧米では、音が言語記述の基本であって、文字などは二次的なモノに過ぎないのだよ。驚くことだろうが」

とおっしゃったことは、今も覚えている。そうなのだ、漢字文化圏は文字中心の言語観、欧米のそれは音声中心の言語観なのだ。多分森岡先生も留学してその徹底ぶりに驚かれたのだろう。

「欧米の言語学者は、(音の分析から始めることで)火星人の言語も分析できると豪語していたよ」

とも言われた。

 さて、文字中心の古典的な言語観など持ち出して、何を今さらと思う俳句作者に問いたい。俳句は音節のリズムだけをそろえればいいのか?冒頭の西鶴の句の「今日」は、kyouなのか?それともkyooなのか?これを二音節と数えるのは、「けふ」と書く文化を引き継いでいるからではないのか?

 こうした「文字」を「音」とも解する、漢字文化圏の周辺に生まれ育った日本語の発想を無視したまま、俳句の「音」の問題など本当に理解して表現できるのか?

 このことについては、私とこのサイトの運営者である堀切さんで書いた『俳句がよくわかる文法講座』であれこれ書いている。是非読んでみて、感想を寄せて頂きたい。

 文字は音でもあったと知った時、本当に次の句の良さを味わうことができるだろう。頑固に音は音、文字は文字と限定することにこだわる「原理主義」では、この句の奥にあるしなやかな感性はおよそ理解できないだろうことに必ずや思い至るはずである。

  大学も葵祭のきのふけふ   田中裕明


【執筆者プロフィール】
井上泰至(いのうえ・やすし)
1961年、京都市生まれ。上智大学文学部国文学科卒業。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。現在、防衛大学校教授。著書に『子規の内なる江戸 俳句革新というドラマ』(角川学芸出版、2011年)『近代俳句の誕生ーー子規から虚子へ』(日本伝統俳句協会、2015年)『俳句のルール』(編著、笠間書院、2017年)『正岡子規ーー俳句あり則ち日本文学あり』(ミネルヴァ書房、2020年)『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(共著、文学通信、2022年)『山本健吉ーー芸術の発達は不断の個性の消滅』(ミネルヴァ書房、2022年)など。


【バックナンバー】

第1回  俳句と〈漢文脈〉
第2回  句会は漢詩から生まれた①
第3回  男なのに、なぜ「虚子」「秋櫻子」「誓子」?
第4回  句会は漢詩から生まれた②
第5回  漢語の気分


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